しんしんと、雪がふっていた。音もなく天より舞降りた白い華は、地面につくとそのまま静かに積もってゆく。 そんな雪の夕方、妖精が棲むと噂される森の中を、一人で歩く者がいた。 毛皮の服と帽子を身に着け、背中には弓と矢筒を背負っている。うす汚れたマフラーで鼻先までを覆い、時折立ち止まって辺りを見回す瞳は琥珀色、というよりも金色に近い。 灰色のかった白と濃い影の色以外には、ほとんど何も見えなかった。白っぽい肌の木の多いこの森は、冬になると生き物の気配がなくなる。この季節にここを歩くのは、エルフェと呼ばれる人間とは異なる者たちの見回りくらいだった。 もさり、もさり、という、くぐもった足音だけが、マフラーを手繰り寄せた耳元へ届く。冷たい風に晒された皮膚の感覚は、既に凍りついていた。精霊と呼ばれてはいるものの、彼らエルフェの体は人間と大差ない。 時々手を握ったり開いたりしながら、動かなくならないように気を配り、歩き続ける。毛皮で出来た厚いブーツの中身も、かじかんで段々痛みだしていた。 冬の見回りには、腰のナイフと背負った弓と、鍛えた感覚だけが頼りだ。とはいえ、この深い雪の中に現れる者など、そうあろう筈もなかった。 いつもどおり、という油断から、それの存在に気付くのが遅れた。 「おあッ?!」 何かに足を引っ掛けて、バランスを保てずに雪の中に突っ込んだ。長年の経験で染付いた習性から、辛うじて頭から飛び込むような醜態は晒さずに済んだものの、顔の半分が冷たい雪にまみれる。 「――っ……?」 頭をふって起き上がり、足下に横たわっていたそれに視線を移す。引っ掛けた感触がなんだか柔らかかったようだが、と不思議に思ったそれは、茶を帯びた灰色の毛皮に覆われていた。 最初は、餌を求めて迷い出た鹿か何かの死体にみえた。 昨日の見回りでは、そんなものは見かけなかったので、思いがけず新鮮な肉にありつける、と考えたところで、見間違いに気付いた。帽子を直しながら、体温で解けた雪に濡れた髪をかきあげて、男は溜め息をつく。 半ば雪に埋もれたそれは、毛皮を纏った人の形をしていた。 埋もれていたのは、まだ少女といっていい顔立ちの女だった。それも、エルフェではなく人間の。その顔と耳の形を見て、男は一瞬、息を飲む。 (……もう死んでいるのか?) 人と分かって慌てて掘り出し、揺り動かしたがピクリとも動かない。触れた頬は土気色、おまけにまるで体温を感じなかった。紫色の唇に諦めかけながら、男は遭難者の細い首筋に、手袋を外した指を押し当て、脈を測る。 今にも途切れそうなほど弱々しい鼓動を指先に感じた。 まだ生きている。 だが、彼のすむ集落までは大分距離がある。何もしなければ、少女の命はすぐに尽きてしまうだろう。 青年は首筋から手を放すと、彼女の体を再び雪上へとそっと横たえ、立ち上がる。冷たい空気をゆっくりと胸一杯に吸い込み、低いが澄んだ声で歌い出した。 『透き通る風に踊りし 凍てつく気』 『大地なる母が御胸に しばしまどろめ』 『遥けき空の いと高き父』 『子は願い今ひと度の 光を望む』 『雲に隠れた慈悲の雨 大地に眠る命の火』 『我が祈り耳かたむけて かの子らの命の糸を』 『その御手による妙なる衣の 織り糸にしばし留め給え』 紡がれる音に誘われるようにして、樹々の枝から小さな光の粒が集まり、意識のない彼女の周りを、ぼんやりと照らしだした。やがて光はその胸のあたりから、ゆっくりと体の中へ染み込んでゆく。 青年は歌い終わると、再びその傍らに膝をつき、頬に触れた。表面は未だに冷たかったが、青ざめていたそこに、わずかな赤みがさしはじめていた。 「ひとまずは大丈夫だな……後は、と」 ひとりごちて安堵の息を吐き、男は弓と矢立てを腰のあたりにつけ直した。それから少女の体を起こし、自分の背に負う。人間にしては軽いが、意識のない人の体は、ぐったりとして重く感じた。 ![]() ![]() やがて樹々が少しずつまばらになってくると、青年のすむ集落は近い。遭難者を拾ってからここまでは特に何も無く、ほぼ普段どおりだった。もう少しだ、と少女を背負い直し、足を早める。 安心しかけたその頬を、背後から矢がかすめた。思わず矢の飛んできた方へ目をやると、今度は怒号が飛んでくる。 「何者だ?!」 「……ガイゲ? ……あの馬鹿っ」 馴染みの名前を呟き、振り返って怒鳴りかえす。 「シュネイだ、ガイゲ! いま森の見回りから帰った!」 「いやいやいや、んなのさすがのガイゲも分かってんだろ。その背中のに聞いてんだ」 「……ブランド」 同じような毛皮の服を着た、年恰好はシュネイと同じくらいの男が近付いてくる。シュネイよりはやや細身で、耳の先が尖っていることから、彼も同じくエルフェだと知れる。 「……答えられる状態じゃない。見つけたときは半分死体だったけど、まだ生きてたから、軽く蘇生して連れてきた」 「ふーん……っておいおい、これ人間じゃねえかよ? ったく、お前もこんなの蘇生すんなよな」 少女の丸い耳を軽く摘んで引っ張りながら、ブランドはあからさまに顔をしかめた。その手から庇うようにして向きを変え、シュネイは言い返す。 「死んだら何も訊けないだろ。真冬に人間が迷いこむなんて、何十年に一度あるかないかだ。長に相談して、何があったか調べるべきじゃないのか?」 「ま、何にせよ長の判断次第だよねえ。狩人には見えないけど、もしそうなら殺して食べるだけだもん」 樹上から降りてきたガイゲが調子を合わせ、それもそうかとブランドが笑う。 「ま、シュネイの事だしな。村のもんがなんて言おうと、お前の見る目は間違いねぇ」 「うんうん。ブランドよりはまず間違いないよー」 「んだと、ガイゲ、てめぇッ」 「あでででっ、耳引っ張らないで、耳ぃ!」 そんな二人のやり取りに思わず笑いながら、シュネイはほっと胸を撫で下ろす。 と、背中にわずかな身動ぎを感じた。慌てて少女を背負い直し、じゃれあっている二人に告げる。 「そろそろ行くよ。見回りの報告と交替もあるし」 「そうだよ、僕らも仕事しなきゃー」 「おーっと、あんまサボるとまたビルケさんに怒られっしな。背中……気ぃつけろよ」 「ああ」 「じゃ、またあとでねー」 ガイゲとブランドが持ち場に戻るのを見送り、シュネイは再び歩きだした。 集落につき、まずは見張り用の厚ぼったいテントで、シュネイは見回りの報告と交代を済ませる。それから見回り部隊のリーダーであるドンネルと共に、集落の長のいるテントへ向かった。 人間を拾ったと報告すると、ドンネルはあからさまに嫌そうな顔をした。本人は人間が死ぬほど嫌いだと、普段から豪語しているほどだから、きっと見るのも嫌なのだろう。 だがそこはさすがに部隊長、すぐに捨ててこいとは言わなかった。シュネイの意見を聞き、最もだとうなずいて、自分と共に長のもとへ連れて行くよう言ったのだ。 ただし、そのぐったりとした体を背負うのはもちろんシュネイで、さらに頭から毛皮をかぶせるように、との指示つきだったが。 集落の中でも一際大きなテントにつくと、この集落の長である老女が待っていた。小さな体に美しい刺繍を施された厚いマントを羽織り、物言わぬ木の如く静かに座るその姿は、幾星霜を生き抜いた巨木そのものの威厳がある。 ドンネルはその目の前に、背負ってきたものを横たえるように指示した。 「ミステルさま」 「わかっておる。人間、だな?」 「……恐れ入ります」 シュネイがかぶせた毛皮をどけないうちに、ヤドリギの名を持つ彼女はその中身を言い当てた。 だれも報告などしていないのに、と、その力におののきながら毛皮をめくって見せると、老女は灰色の目を見開いて驚く。横たわる少女の顔は、シュネイがかけた術のおかげで、大分生気が戻ってきていた。 「これは……なんとまぁ……」 「いかがなされました?」 「……いや……なんでもない。武器は?」 「ナイフを二本。それ以外には特に武器はありませんでした。こんな軽装で、狩人とは思えませんが」 少女から取り上げたナイフを二本、自分の服の懐から取り出して、ドンネルは軽く意見を述べた。シュネイはドンネルよりも一歩下がって跪き、長の決定を待つ。 「いかがしましょうか」 「こんな真冬に、人間がモンデンヴァルトに迷い込むとはのう。……確かに異常な事態ではあるが、気絶していては何の目的で来たのか、わしにも読めんでな。この女、しばらく介抱して、体力が戻ったら再び見るとしよう。何も無ければ森の外へ帰してやるが、邪心ありしときは、獣の宴に供そう」 「御意。して、この人間は誰が介抱するので?」 「ふむ……ドンネル、お前がやるか?」 何気なく言われ、ドンネルはあわてて首を振る。 「そ、そんな……! 私が引き受けたらどうなるかお分かりでしょうに!」 「冗談じゃよ」 老女はさもおかしそうにくっくっと声を出して笑い、ドンネルの慌てぶりを楽しむ。いつも厳しい部隊長のそんな姿に、シュネイも心の中で少しだけ、笑わせてもらった。 「さて、どうするか。人間を嫌う者は多いしのう……そうじゃ、シュネイ」 「は、はィ!」 話を振られるとは思っていなかったシュネイは、思わず上ずった声で答えてしまう。ドンネルは部下を横目で睨んだが、そんな彼の無礼な態度にも微笑んだまま、ミステルは提案した。 「拾ってきたついでじゃ、わしはお前が預かるのが一番よいと思うのじゃが……どうじゃ?」 「……分かりました」 森のエルフェにとって、所属する集落の長の言葉は絶対だ。提案の形をとっているとはいえ、逆らえるはずもない。シュネイは跪いたまま頭を下げ、言葉と共に了承を示す。 「よしよし。二人とも、ご苦労じゃったな。下がってよいぞ。……ああ、シュネイは少し話があるな。ドンネル、先にお前だけ下がるがいい」 「では……失礼致します」 出て行くドンネルが何故か気の毒そうな顔でシュネイを見やるが、気付かないふりをした。頭を下げたままのシュネイと、鎮座するミステルだけが二人きりでそこに残される。 一体何を言い出されるのかとびくびくしながら、シュネイは老女の口が再び開かれるのを待った。 |
BACK | NEXT |