『 Leannan Sidhe(ラナン・シー) 』

その昔、絵の好きな少年がいた。

父親は商人で、それなりに裕福な暮らしをしていた。父はいつも、珍しい品を土産に帰ってきては、少年に見せてくれた。少年とその兄は、目を輝かせてそれらの珍しい品を取り合った。幸せだったその少年の名は、イルベス=フィンハーブ。
あるとき、いつものようにたくさんの土産を抱えて父が帰ってきた。今回は東の方の国に旅してきたというその土産品の中に、一枚の絵が混じっていた。細密画、と父の呼ぶそれは、異国の香りの漂う不思議な絵であった。人物、背景、そして模様。あらゆるものに魅せられた少年は、その絵を貰い受けて部屋に飾った。いつまで見ていても飽きはこなかった。少年はそれ以来、父が帰ってくるたびに絵をねだるようになった。大きいもの、小さいもの、写実、抽象、油絵の具、水彩絵の具、西洋風、東洋風、風景、静物、宗教、肖像。世界中の絵が、少年の部屋を埋めていった。
そして少年は自ら絵筆をとる。みつかればうるさいので、家庭教師や母親のいない間をぬって、ただ無心に描き続けた。それは決して巧い絵であるとはいえなかったが、それでも描き続けた。そのうち、少年は青年へと成長していった。
イルベスは、もはやその地に留まらなかった。絵をもとめて、あちらこちらと旅をして回った。幸い世界を旅していた父に教わったおかげで、言葉にはあまり困らなかった。はじめのうちは母親も父親も兄も使用人もみんな反対したが、5年もたてばみんなあきらめた。若いまなざしは、常に遠くを見つめていた。

やがてイルベスは、ある国の青い海辺に住み始めた。うちすてられた古くて狭い倉庫をすこし直しただけの、粗末な家だ。それでも、だれにも邪魔をされずに絵を描くことができるのだから、彼にとってはそれで十分だった。
すこし慣れてくると馬を一頭買ってきて、それを乗り回しては、やはり色々なところへ出かけた。人、物、風景、想像……たくさんの絵を描いては、街の片隅に並べてみる。だが、素人の絵ではなかなか売れなかった。みんな、工房をもった有名な絵描きに依頼するのだから、イルベスのような街頭の絵描きは生活さえ危うかった。しばらくは実家からの送金で生活していたが、それも打ち切られた。最後の仕送りには、夢ばかり追いかけていないで、いいかげん帰ってきて家の手伝いをしろ、という父の手紙が添えられていた。最も、そのころには父は引退して、もっぱら兄が行商をしていたのだが。
仕送りがうちきられても、イルベスは故郷へ帰らなかった。自分で簡単な仕事をさがしては働いて、少し金がたまるたびに、絵の具を買っては絵をかいた。それでも苦しくて、子どもの頃に父からの土産でもらった絵をひとつずつ売り払い、売り払い、そうして絵を描き続けるうちに、手元にはキャンバスとイーゼルと、わずかな服とランプがひとつ、それから絵の具と筆がのこった。赤みの差していた頬は黒ずんでやせ、いくぶんか筆の持つ手が震えたが、それでも描き続けた。才能はないといわれながら、あきらめきれなかった。 しかし、粗末なパンひとつ買う金がなくなっても、あの細密画だけは手放すことができなかった。黄色い冠を被った青黒い肌の若い男と、褐色の肌の女が抱き合っている異国の絵。

やがてイルベスは、しばし絵を描くことをやめる決心をした。生きていられなければ、絵を描くこともできなくなる、そう思ったからだ。それから数年、イルベスは街の工場で汗を流して働いた。本当は誰か高名な画家の工房で働きたかったが、彼の描いた絵をしっていたその街の、誰もが笑いながら首を横に振った。仕方がないので工場労働者として、安い賃金に苦しみながらも金をためた。いつの間にかその手は、筆を握ることを忘れてしまったかのようだった。

そうして働いているうちに、恋人がひとりできた。チェシャ=スチルトン、どこかの島国から移民してきたという、女性労働者だ。働いている工場が隣同士で、イルベスが街頭で絵を売っていた頃から知っていたという。彼女は外見こそ汚れていたが、ひとたび汚れをおとして着替えれば、見違えるほど綺麗になった。労働者として、なかば落ちぶれたようなイルベスには、正直もったいないほどの美人だ。
そんな彼女は芸術作品にひどく興味を示した。休日のデートは、気がつけばいつも美術館だ。二人は絵の話でよく盛り上がったが、もう絵は描かないのかとチェシャが問いかけると、イルベスは決まって悲しそうに眉をひそめるのだった。

「イルベス、どうして絵を描かなくなってしまったの?」
ある晩、小屋に来ていたチェシャがふいにそう聞いてきた。イルベスは応える。
「そのままだと、生きていられなくなるからね。筆をにぎれなければ、絵もかけないだろう?とりあえずはお金を貯めて、そしたらまた描こうと思うんだ……それがいつになるかはわからないけれど」
自嘲するように笑い、顔の前に傷だらけで皮の厚くなった手をさらす。
「少し前まではこんな手じゃなかった。もっと細くて、白くて、まるで女みたいな手でさ。その頃はするすると、紙の上を筆が滑った。でも今は……」
自分の手をしばらく眺め、それからランプ越しの女性に目を移した。彼女のそばには粗末なベッドと、イーゼルがならんでいる。
「キャンバスに向かっても、何も浮かび上がってこないんだ。もう、このまま絵なんて描かないほうがいいのかもしれない、なんて思ったりする」
じじっ、と油の切れかかった火がゆれる。
同時に、女の影も大きく揺れた。そのまま背中から腕をまわし、ささやくような声で彼の耳をなでる。
「でも私、あなたの絵を描いている姿を見たことがないもの。ねぇ、一度だけでいいわ。今のあなたの描く絵を、みてみたいの」
「でも、筆が進まない」
「大丈夫よ、きっと描けるわ。もし本当に浮かばなかったら、私のスケッチでも描いて、ね?」
イルベスのつかれきった瞳に、ふ、と一瞬だけ燃え上がったランプの明かりが映りこむ。チェシャは彼を抱いたまま、母のように微笑んだ。

翌日から、男はふたたび絵を描き始めた。
以前のように、いやそれよりも遥かになめらかに筆が走る。不思議な感覚だった。筆をとってみれば描きたいものは、すでに頭の中に映像として焼きついていた。いままでに見てきたもの・感じてきたもの全てが、体の中心で渦巻いていた。
恋人はそんな彼を見て、わずかに悲しみを含んだような笑みを浮かべる。いつもの笑みではあったが、嬉しそうな、しかしなにかを恐れているような、そんな笑みだった。


仕事もしながら、それが描きあがったのは同じ季節がふたたびめぐってきた頃だった。
出来上がった絵の中では、神の従者である女騎士が白馬にまたがり、聖なる槍を空にかざしながら微笑んでいる。生々しい戦争の傷跡がそちらこちらに残り、傷ついた人々は鎖を引きずりながらも、手に手に武器をとり、今まさに進軍しようとしていた。彼らの目線の先には、画面を見る人間の顔がある。
「チェシャ、みてくれよ。やっとできたんだ」
ある朝、彼は太陽が昇るか昇らないかのうちにやってきて、上気した顔でそう告げた。
まるで跳ねるような足取りの男について行くと、油のにおいの染み付いた家の中に、それは静かにたたずんでいた。
絵の中から強いまなざしで見つめてくる人々の表情が、まるで生きている人間のようだった。漠然と思わせる雰囲気はどこか遠い異国の風が混じっている。力づよく思い切った筆づかいと、繊細な表情のギャップが大きいが、どちらも貶めあうことなくそこに存在していた。
「ねぇ、この騎士の顔……最後まで見せてくれなかったけど……」
ちょっとはにかみ笑いをして、イルベスは彼女から目をそらす。チェシャは顔をすこし赤らめながら、嬉しそうにイルベスにくちづけた。
その絵はさる金持ちの目にとまり、彼の名が広まった。注文客は一気に増えたが、それでも彼は一枚、一枚、丁寧に描いていった。いや、早く描くということが、彼にはできなかったのである。あまりに早いと、彼の絵は生気を失ってしまうから。一筆ずつ、生命を吹き込んでいったのだ。
「チェシャ」
ある日、イルベスはいつものように傍らで仕事を眺めている彼女に話しかけた。
「なあに?」
愛らしい笑みで応えるチェシャ。以前よりもやせたイルベスに対する目に、相変わらずどこか悲哀のようなものが混じっている。
「僕は、そろそろおかしくなってきたよ」
突然そんな事を言い出すので、彼女は軽く目をむいて言う。
「おかしく?いつもどおりじゃないの、何を言っているの?」
「……体の中でね、何かが崩れていくんだ。病気になったのかもしれない」
世間では天才画家とまで呼ばれるようになった彼の目に、映りこむのは明るい暖炉の炎。勢いよく燃えているそれのなかで、まきがぱちんと音をたててはぜた。指先には、穂の細い筆がある。
「病気……」
「それが何かはわからないけれどね。医者に診てもらったほうがいいかな」
「そうね、万が一ってこともあるし」
女の声にも、悲しそうな響きが含まれた。火は一層強く燃え上がり、窓の外には雪がふり始めていた。

それから何ヶ月かして、男はたびたび床に伏せるようになった。医者にははっきり病気だと告げられていたが、彼はチェシャには決して明かそうとしなかった。ただの風邪だ、とか、すこし根を詰めすぎた、とか、言い訳をし続けていたが、日に日にやせ細っていくイルベスの姿に、彼女が気付かないわけがあったろうか。しかし、チェシャも気付かない振りをし続けていた。彼の病を認めたくないふうでもあった。
ふらふらと、足取りがあやうくなっても、描き続けた。残りすくない命であると、自分でも分かっていただろう。それを拒むようにキャンバスに向かった。青白く骨と皮ばかりになった足をひきずり、手を動かして、必死になって絵を描いた。周囲にはなんでもないと気丈な表情をみせ、自分をもごまかしながら。
そのうち、手紙の途絶えてしまった弟を心配して、兄がたずねてきた。彼の名は故郷にまで響いていたが、その噂の中には病のことも少しだけ含まれていたのだ。それを聞きつけて、兄は彼の家へとやってきた。彼はいつもどおりキャンバスに向かっていた。
「……立派になったもんだな」
「そんなことはないよ。きっと歴史の中ではうずもれて消えてしまう」
兄の感嘆に、イルベスは苦笑で答える。
「病気になって、そうやってやせ細って……そんなになるまで描き続ける理由はなんだ?」
兄が眉をわずかにひそめて問うと、一瞬手がとまる。
「一度はやめようと思ったんだ。才能もなくて、金もなくなって。労働者として働きはじめて、金がたまったらまた描こうと思っているうちに、そのままでもいいかなって」
ふたたび動き始めた軌跡に、迷いはない。
「彼女……恋人のチェシャだけどね、彼女がいなかったら、僕は本当に筆を捨てていたよ。でも、やっぱり描くのは好きだから」
微笑んだ頬はこけ、唇の端にあまり力はなかった。それでもその瞳には、強い輝きがある。
「画家とかなんとか言われるよりも、こうやって白い海に色を落としていくのが好きなだけなんだ。ちょっとずつ、重ねれば重ねるほど綺麗な舞いを見せてくれる。そうして舞台が出来上がると、それはこの上ない喜びにかわる」
やがて紙の上に現れてきたのは、祈りをささげる若い女の顔。
「大丈夫なのか、そんな体で」
「うん、もう長くない」
まるで天気の話でもしているように言ってのける。子供のような明るい顔だ。
「実を言うと、こうやって立って歩いてることが奇跡だって、医者にも言われてるんだ。でも、僕の絵を待っている人たちがいる。それがどうのってわけじゃないけど、やっぱりこの腕で世界をつくりだして、それを見てもらうってのが楽しくて仕方ないんだよね」
「その恋人は知ってるのか?」
「知ってると思う。知らないふりはしてくれているけど……僕が話さないから」
「話さない?」
「余計な心配かけたくないからね。本当は兄さんにだって知らせるつもりはなかった。もし訪ねてきても、しらをきるつもりだったんだ。まさかそんな遠くにまで噂が広まってるなんて」
「そこまでやせ細ってるのをみて、気付かないと思うか」
「まあね」
くっくっ、と小さく声をたてて笑う。同時に小刻みにゆれた筆が、しなやかに合わせられた指先を整えた。わずかに青みを加えた白に、赤い色が加えられる。
「治らないのか?」
「治らないね。なんだか体中が侵されているらしいから、手術しても内臓がごっそりなくなっちゃう。まあ、早めに見つかっても移動するらしいから、どっちにしても無理だよ」
それからしばらく兄弟は、無言で顔をうつむけた。暖炉の灰がはじける音に、滑る筆と絵の具を削るナイフの音がこだまする。
「リャーノンシーにとり憑かれたかな?」
冗談まじりに弟が呟くと、聞きなれない言葉に兄が聞き返す。
「リャーノンシー?」
「チェシャの故郷の妖精なんだって。芸術家に霊感を与える代わりに、その芸術家の命を燃やしてしまう。芸術家が短命なのはそのせいなんだって。急に有名になったりして、今の僕がそんな感じかなって」
「まさか。ただの言い伝えだろう?」
兄はイルベスの冗談をかるく流した。イルベスもうなずきながら笑っている。
「今日は泊まっていきなよ。頼みたいこともあるし」
弟は、やがてかたりと筆をおいた。

「…………」
ゆらりと浮かび上がるのは、ひとりの女性の顔。うすい紅の唇からもれだす声が、自分の名前を呼ぶ。
もう、その顔を見ることは叶わなかった。ぼんやりとした視界に、かすかに揺れているだけだ。耳もあまりよく聞こえない。かろうじて彼女の声が意味をなすが、頭のなかで補わなければそれも難しかった。
「ごめんなさい」
しきりに謝る声が聞こえる。うごかない口を無理に動かして、彼は応える。
「君のせいじゃない……僕がそうしたかったからそうした、それだけだ」
「……ちがうの、ちがうのよ……」
女はしきりに首を横に振る。子供が何かを嫌がるような、そんな動作だ。しかし、男にはよく分からない。腕をのばし、女の頬に指先を触れさせる。
「もうすこし、君といたかったな」
やがてひとつぶのしずくが、男のほおと女の手をぬらして過ぎた。男の胸は、二度と動くことはなかった。

「あなたがチェシャさん?」
白い十字の石塔の前にぼんやりと佇む、黒い服の女に一人の男が話しかけた。女は振り向かなかった。その真新しい土の下に眠る男と、よく似た声が近づいてくる。
「あいつから、頼まれたものがあるんだ」
女は振り向く。
「俺の手では運べないから、ついてきてくれるかな。……ああ、俺はあいつの――」
「あの人から聞いています。お兄さんがひとりいると」
「……知ってるならいいんだ」
男の目の端と鼻の下が赤くなっている。
対して女の目には濡れたあとさえなかった。ただ深いうつろな闇がひそむ、氷のような目だ。女は黙ったまま、男のあとについていった。 やがてついたのは、かつてイルベスが暮らしていた、粗末な倉庫を改造した家。きらきらと穏やかに輝く海辺に、それはひっそりとたたずんでいた。
中に入ると、そこはまぶしい夏だった。太陽に照らされた海辺の町に、一人の女が立っていて、振り向いて笑っている。まるで生きているかのような顔は、この絵を描いた者が、この世で最も綺麗だとかたる顔だ。
「……あ……」
手先は器用なのに、自分の気持ちには不器用な男が、最期にのこした一枚の絵。これまで描いたどんな絵よりも、いきいきとしたその場所に、女は頼りない足取りで近づいた。白い服を着た女のすぐそばに、あまり巧いとはいえない字で何かが書いてある。
『どうか、君を不幸にしてしまう僕を許してください。いつか、神の前で指輪をはめてあげたかったけれど、どうやら叶いそうにない……だからせめて、君にこれを。駆け足で過ぎ去った景色の、僕の大好きな一瞬を』
男の兄は、静かにその場所を去っていった。そこにいることができなかったから。

「イルベス……あなたの命を奪ったのは私。わかっていたの……あなたにすばらしい感覚を与えれば、あなたの命がより早く燃え尽きてしまうことくらい」
女はひとり、自分の前で呟いた。
「私は『ラナン・シー』……芸術家達に力を与えるたび、命をうばってきた」
細い指で、イルベスの文字をなぞる。
「それでも、あなたの笑っている顔が見たかったの。イルベス……私は取り返しのつかないことをしてしまった」
やがて女は、壁の中の手と、自分の手を重ね合わせた。大きささえもぴたりと重なるそれは、まるで鏡のようだ。
「わたしは、今まで人を好きになれなかった。人の作り出す美しさには惹かれたけれど、ただそれを見るためだけにその人の命を燃やしてきた。悪いこととは思わなかった。でも、人に身をやつしてみて、こんな風に……目の前で天に召されると……」
するり、とその手が壁に沈んだ。その顔に、ふっきれたような笑みが浮かぶ。
「私はもう、人間ではいられないわ。だからせめて――」

それから、女の姿を街で見たものはいなくなった。
街の片隅、海辺の小屋には、今でも壁に描かれた大きな絵が残っている。その壁の中では、ひとりの画家の愛した女が、黒い服を着て微笑んでいるという。



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