まぶたの裏にうつるのは、さっき見たばかりの大きな月。ほのかに光っているそのふちが、ぐらぐらとゆれているような気がする。 ぱちり、と目を開けると、そこは見なれたはずのテントの暗闇だ。体を起こし、頭を少し入り口の方に動かすと、オレンジ色の光がテントの中に細く入り込み、かすかに揺れている。 外に出ればいくつかのテントが、円陣を組んで一つの大きな火を囲んでいた。テントの布には、赤やあおの染料で不思議なまじないの文様がえがかれ、祭壇のようなある種の独特の雰囲気をつくっている。森のなかに小さく開けた場所にたつテントの群れは、人間たちに精霊とか、森の妖精とか言われる者たちの、定期的に移動する集落だった。 「どうしたんだ。眠れないか?」 「うん……」 火のそばで、今夜の番をしているのは少女の兄だ。まだまだ少年といえる成りではあるが、これでも規模の小さくなってしまった集落には大事な男手のひとりである。経験は浅いが、それなりの狩りや戦闘をこなしてきていた。 その兄の座る丸太のところに、幼い彼女はどこかおぼつかない足取りで歩いていき、そのまま隣にすとんと腰かけた。 「あのね……なんだかね、怖いの。今日のお月さま、落っこちてきそう……」 呟くように打ち明け、少女は空を見あげた。少年も同じように空を見る。 今夜は、満月だった。高い空に上ったやや青白い明るい光が、二人を見下ろしている。 ぐい、と腰巻の端をつかまれて、少年は妹の方に目線をずらした。不安そうにうつむいた妹の頭に手をのせ、くしゃくしゃと撫でた。 「それじゃ、うたを歌ってやろうか」 「おうた、歌ってくれるの?」 「ああ。そうしたら眠れるだろ」 こっくりと大きく頭を下げた妹の顔は、次にあがってくるとうれしそうに輝いている。 「なんのお話?」 「……遠い遠い、昔のはなしだ。僕たち精霊がまだ人間だったころの、人間たちの歌……」 少年はゆっくりと息を吸い込むと、まだ高いが美しい声で歌いだした。 『 森はざわめき 風たちはうたう 』 『 旅人の歩みは緩めども 商人の馬車は急ぎゆく 』 『 くろがねの馬車は 大地をかため 』 『 ふりかえれば 横たわる荒野 』 『 時は大河の如く あるいは光の速さで 』 『 過ちをつつみこみ 傷を撫で癒していく 』 『 風に舞う砂よりも 軽き数多のわれらののぞみ 』 『 踏みしだかれた 花まぼろしと 』 『 蒼天穹の 涙に滅ぶ 』 『 陽炎の揺らめき一つ 』 『 ひとはうたかた 現世はゆめ 』 ――しずかな歌にあわせ、焔のなかに次々と幻が浮かび上がっては、消えていく。かれら精霊の歌には、歌や詩にこめられた思いや情景を、直接的に伝える力があるのだ。 うたの終わりと同時に、ぱちんと薪がはぜた。どうっ、とひときわ強い風が吹き、焚き火を大きく揺らす。 いつのまにか少女のまぶたはおろされ、小さな胸が安らかに上下していた。肩に頭をもたせかけていた妹の体を、起こさないようにそっと抱きかかえ、自分たちのテントのなかに入る。それから寝床に、大切なものをいとおしむ仕種で静かに横たえた。口元をほほえませながら薄い布団を体にかぶせてやり、ひととおり寝顔をながめてからテントを出て、再び焚き火番を続ける。 そんな一夜を、蒼い月が優しく見下ろしていた。 |
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