ゆうらり、ゆうらり。 少女がのぞいているのは、てっぺんに穴のあいた木の株だ。さっきまで降っていた雨のせいで、朽ちた穴に水がたまったのだろう。かぜが吹くたびに、水面に波ができてゆれている。すんだ水は、そのまま飲めそうなくらいに透きとおっていた。 少女は木の実がいっぱいに入ったかごをさげ、しばらくそこで水に映るいろんな影に見入っていた。昼間の森で、動物たちはとてもしずかだ。急に晴れたせいか、むせ返るような空気がどことなく重い。 水面にうつる木洩れ日はステージライト。風でゆれる木々のきぬ擦れの音や、雨上がりの太陽のささやく声なんかをBGMにして、ちぎれた葉っぱや陽気な虫たちが踊っているのがみえる。森のきまぐれなミュージカルが、次々と切り株のスクリーンに映し出される。 とつぜん、水面がさっきとは逆方向にざわりと揺らいだ。虫や葉がそこから消え、かわりに浮かび上がったのは、見知らぬ少年の顔。彼女の兄によく似ているが、金の瞳は青紫に、優しげな純白の髪は、猛々しい金色に彩られている。なによりも、とがっているはずの耳のさきが丸かった。 驚いた少女は、誰かしらない人がきたのだと思って振りむいた。だが、だれもいない。気のせいかと水面に目を戻したのだが、そこにはやっぱり少年の顔が映っていた。少女がさっきそうしていたように、彼は水の中からこちらをのぞきこんでいる。 「……あなたはだれ?」 不思議と恐ろしいという気持ちはなかった。あまりに見知った顔に似ていたからだろうか、おもわず声をかけてしまう。だが、聞こえるはずのないその声が聞こえたかのように、水の向こうの少年はふわりと微笑んだ。 「おーーーーい」 遠くから呼ぶ声がひびく。彼女の兄の声だ。狩りから戻り、集落に少女の姿がないので探しにきたのだろう。しかし、彼女にその声がとどいた様子はない。 「どうしたんだ、こんなところで」 妹の姿をみつけて駆けよってきた少年は、少女が木の株に見入っているのに気がついて、自分もうしろからそれをのぞき込んだ。けれども溜まった水には兄妹の顔と、よく晴れた空がうつっているだけで、ほかには何もみえない。 「あ、お兄ちゃん」 ようやく兄が来たことに気付いた彼女は、上を見あげた。金の瞳、純白の髪、先のとがった耳。今度はまちがいなく、自分の兄だ。 「大丈夫か?木の実拾いに行ったまま戻ってないっていうから、心配したんだぞ」 いつものように頭にのせられた手が、くしゃくしゃと撫でまわしてくる。 「あのね、お水の中にひとがいるの。お兄ちゃんにそっくりでね、でもね、お耳がとんがってないの」 妹はみたままを言葉にする。それで兄は、彼女が帰ってこなかったわけがわかって納得した。少女はだれかの、声のないこえをきいていたのだ。 「耳がとがってないのは、まえに歌った話にでてきた『人間』だよ」 「にんげん?」 「うん。お兄ちゃんに似ていたんなら、それはたぶん、生まれる前のお兄ちゃんかな」 「おかあさんの、おなかのなかなの?」 少年は首をよこにふった。それから、もはや朱く染まりはじめた太陽のほうに顔をむけ、目をほそめる。 「お母さんのお腹の中より、もっとずうっと前だよ。僕たちは、うまれる前は人間だったんだ」 「あたしも?」 「うん、そうだよ。もしかしたら前も、お兄ちゃんの妹だったのかもな」 それでお前をみていたのかも、と笑い、少年はやさしい旋律を唇にのせた。 『月の涙に集え さまよえる音なきかばね』 『うつろう時の波 ねむれぬ夜にゆるゆると』 『わが胸にかえれ 時をこえ結ばれし躯』 『とわに縛りし罪の鎖を われ今ここで断ち切らん』 『願うは幾多の星に 乞うはなんじの心に』 『やさしき雨は天より降りて いつか花を添えるだろう』 『木々の涙が やがては琥珀となるうちに』 『太陽の舟にのり 幾千のちにかえることを』 『われ祈る 大地の母に頼み乞う』 『月の涙に集い いまは天に休め』 『太陽の舟にのり かえる時をしばし待て』 木々がざわめく。なにか目にみえないものがゆっくりとその場でうろつくのがわかった。歌に反応し、どこか喜んでいるようにも感じる。 歌がとぎれると、それは微笑むように一瞬とどまり、そして少年の姿と交わった。少年の方は、腕をいっぱいに広げてそれを受け入れる。 「たぶんずっと、待ってたんだ。僕が来るのを……きづいて、歌うのを」 少年の表情がわずかに影をおび、すこし大人びた口調でつぶやいた。しかしすぐにもとの顔にもどって、少女をよぶ。 「そろそろ帰らないと。みんな心配してるよ」 妹は笑みとともに差しのべられた手をつかみ、二人は手を繋いで帰っていった。 あとに、どこか軽くなった空気と木の株だけがのこされていた。 |
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