九 節『 ギエナールトゥバン 』


 「ギエナ、急になんだよ?」
 ギエナは聖域からすこし離れた場所に生えている樹にのぼり、その太い幹から伸びている枝のうち特に丈夫そうなものを選んで腰掛けた。ディルもそれにならって隣に腰掛ける。
 「ん……ちょっと話をしたくて、な」
「話?」
「ああ」
 目を合わせずに空を見つめ、大きく息をすってからゆっくりと吐き出す。じらすようなギエナの様子に、不安と少しのいらだちを感じながらも、ディルは彼の口から言葉が出てくるのを待った。やがて意を決したのか、吐き出すようにしてギエナの声が飛び出してくる。
「変だって思ったろ?赤珠さまが俺でなくウニョーイェーラが次だって言ったとき」
目を合わせようとはしない彼に、ディルは正直にうなずく。
「気づいてたと思うけど。俺さ、竜になれないんだ」
 意外にあっさりと言われたのでディルは一瞬とまどったが、すぐにそれが自分の知りたかった答えだと知って、複雑な顔になった。竜になるということは、森の子らにとっての憧れであり、いつか必ず来るはずの未来であったからだ。森の子らが竜になれないというのは、いうなれば大人になることができないで、ずっと子供のまま過ごしているということだ。
「……竜に、なれない?」
「ああ。もう、千年近くもこの姿のままなんだ」
樹皮におおわれた右腕の、浮き出た模様を眉をひそめて見つめながら、ギエナはため息をついた。それからしばらく、二人の間に沈黙が訪れる。
 「……俺の名前の意味、知ってるか?」
唐突に口を開いたのはギエナだ。いきなり名前の意味などと聞かれたものだから、ディルはちょっとだけ眉をひそめるようにしてギエナのほうを向く。
「名前?」
「お前の『ディルエヴィラーダ』は、『邪悪を鎮めるもの』って意味だろ」
「え、うん。ええっと……ギエナール……トゥバン?」
頭をひねって一生懸命考えるディルに、ギエナは笑いながらヒントをあたえる。
「あはは、やっぱりそのままじゃ分かんねーか。分解したほうが分かる」
「分解?」
「ギエナ・アル・トゥバーン」
「ギエナ……あっ」
どこか異国の響きをもつ言葉に、ディルは青ざめた顔でギエナのほうを見た。そのまま呆然と、あえぐようにしてその意味を繰り返す。
「竜の……翼?」
「そのとおり。遠い砂漠の国の言葉らしいんだけど、よくわかったな」
 笑みを崩さないギエナに、なぜか胸騒ぎのようなものを覚えながら、ディルは驚きとも哀れみともつかない感情でパニックになりかけていた。
「だって、それじゃあ……っ」
「皮肉な名前だよな。竜になれないのに『竜の翼』なんて」
自嘲でディルの言葉をさえぎり、ギエナは再び視線を遠くに放り投げる。
 森の子らの名前にこめられた意味は、その子供の運命を指し示すものなのだという。だから、それはギエナにとってあまり他人に知られたくない物のはずだった。
「だけどこんな名前だから、俺は空を完全にはあきらめきれない」
「……空……」
ギエナが木漏れ日を見あげて目を細めた。風でこすれる葉の間から、青い空がのぞいている。
 ディルもつられて空を仰ぐ。そして高い空で旋回しながら飛ぶ鳥に重ねて、思い切り翼を広げて雲を裂き、悠々と飛ぶ竜の姿を想像した。いつかは自分もそうして空を飛ぶのだろう。
 「あの空の上からこの森を見下ろす。それは俺にとって、永遠に憧れのままなんだろうな」
さびしそうな声でつぶやき、上を見続けるギエナを、ディルはただ見ていることしかできない。慰めの言葉をかけることも、何かをしてあげる事もできなかった。
 そうしている間に、風がすこしずつ冷たくなってくる。
 「なにもお前がそんな悲しそうな顔する事はないだろ」
ふとディルのほうをむいたギエナが気遣うように言う。しかし見せかけだけの明るい表情で言われたところで、ディルには効果がなかったようだ。うつむいたまま、顔を上げずにつぶやく。
「だって、そんなこと……ひどい」
「……ディルは優しいな」
「優しくないっ」
叫ぶような大きな声で否定され、ギエナは思わず目をまるくしてディルを見つめた。ディルは頬を真っ赤にさせて、言葉をつづける。
「だっておれは、いつかギエナを置いて森を出て行っちゃうんだよ?」
 これには正直おどろいた。竜になるということを、まるで悪いことでもするかのように言う森の子らは、いままでいなかったからだ。 そんな言葉を面と向かって言えるディルがうらやましくて、こそばゆいけれど嬉しかった。
「それは仕方ないさ。森の子らが竜になるのは誰にも止められない。もちろん、本人にもな。俺が竜になれないのも同じ、自然の流れってやつだ」
 穏やかな気持ちでそんな風にいえたことが、ギエナ自身にも不思議だった。どうもディルといると、いつものように虚勢を張っている自分が崩されてしまう気がする。
「俺の名前だって『竜の翼』以外に意味があるのかもしれないし、べつの解釈の仕方があるのかもしれない。だから、ディルが気に病む必要はないんだ」
「でも、ギエナは空を飛びたいんだろ?」
見上げてくる翡翠色の瞳がなぜか胸に突き刺さる。
 自分が竜になれないと明かしたことを、ギエナはここですこし後悔した。ディルには、他人の不運を自分のせいであるかのように思い込んでしまう癖があるのだ。そのせいで自分の未来をあきらめてしまわないかと、不安になった。
 「あのな。あきらめきれない夢ってあるけど、決して叶わない夢っていうのもあるんだ。俺は、叶わない夢をあきらめられないだけなのかもしれない。でもそれは、俺自身の心の問題であって、ディルが心配することじゃない。そりゃまあ、迷惑かって言ったらそうじゃないけど……それでもしお前が竜にならないとか言い出したら、正直いって俺のほうが困る」
竜にならないとか、のところで、ディルが勢いよく頭をあげてギエナのほうを振り向いた。その目がまん丸にひろげられている。
「なんで考えてることわかったんだ!?」
「……お前の性格みてれば、な」
ギエナは苦笑をこらえきれずに、おもわず声をもらす。すると悔しいのか、小さな少年はかわいらしく頬をふくらませてそっぽをむいた。
 「……どうしておれが竜にならないと、ギエナが困るんだよ?」
「だってこんな風に喋ってると、なんか俺のせいみたいじゃないか」
言いながら樹皮に覆われた右腕で、ディルの頭をかるく二、三度たたいた。黄色のかった淡いエメラルドグリーンの髪の毛がいくらか、その拍子にゆれる。
 「お前は俺のために、竜になってくれよ。俺が誇りを持って送り出せるような、立派な竜にさ」
二人の間を、ぬるい風が通り抜ける。
 すると緑色の背景が急に濃くなったようだった。枝葉がざわついて、止まっていた森の時間が動き出したような感じがする。
「……そろそろ帰るか。赤珠さまも心配してるだろうから」
緊張が解けたのか、しばらく他愛もない話をしたあとに、伸びをしながらギエナが言った。
「……ん」
 ギエナに背中を叩いて促されて、ディルがうなずく。それから二人は木からおりて、それぞれのねぐらに帰る前に、いちど赤珠のいる聖域へもどることにした。

 「なあ、ギエナ」
「ん?」
「おれさ、いいこと思いついたんだ」
 並んで歩いていると、ディルが急に紅潮させた顔で見上げてきて、そういった。
「いいこと?」
「うん」
 もはや菫とも朱ともつかない色になり始めた空をみあげて、少年は嬉しそうに語る。
「いつかおれが竜になったら、ギエナを乗せて空を飛ぶんだ。世界を一周してさ、それから森を上から見下ろす。そうしたらギエナの夢、半分は叶うだろ?」
「え……?」
思わず立ち止まって、ディルを凝視する。
「嫌……かな」
首をかしげるようにして振り向くディルに、彼は顔をほころばせて首を横に振る。
「いいや。ありがとな」
その答えに満足したのか、ディルは歯を見せて「にかっ」と笑った。
「絶対、叶えるから」
「……約束だぞ」
 木の陰に光がさえぎられて、笑ったギエナの顔を影が覆った。が、彼の歩きにつれて再び光が差す。それからふたりはまた並んで、赤珠の下へ帰ったのだった。







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