がさがさと草を掻き分けて、少年が一人、走ってくる。頭に細長いバンダナをまいた少年の、その右腕は樹皮に覆われていて、左腕よりもやや長いようだ。緑色の短い髪が走りにつれてゆれ、うっすらと額に浮かんだ汗が、木漏れ日にきらきらと光っていた。 「ギエナーっ」 自分の名を呼ぶ声が聞こえて、ギエナは立ち止まる。きょろきょろと声の主を探していると、再び声が聞こえた。 「こっちこっち!」 見れば巨大な木の両腕をもった、一人の樹妖の少年が手招きをしている。ギエナはそちらに歩み寄り、すこし焦った調子でたずねた。 「どうしたんだ?」 すると彼はにやりと笑い、自分の背後を指差した。 「あっちの道の方が早いよ。ディルんとこっしょ?俺もいくし、一緒に行こうぜ」 「え、こっちって崖じゃ……」 少年が示したのは、世界樹の聖域の裏側に通じる道。しかしその道のりは、地面がかなり大きく波打っていて、おまけに聖域へ出るには高い崖の上からダイブする必要がある。 「あーあ、これだから年寄りは」 「年寄り言うな」 「じゃ、崖なんて屁でもないだろ」 「……分かったよ」 ちょっとため息が出たが、樹妖は聞こえないふりをして走り出した。ギエナもその後について走り出す。本来の走る速度はギエナのほうが早いが、樹妖にあわせて速度をおとした。 やがて問題の崖が見えてきて、樹妖とギエナは一旦立ち止まった。すこし遠くに見えるのは、森の動物たちや樹妖、それに数は少ないが森の子らだった。あの広い聖域がすこし狭く感じるほど、多くの森の住人が集まっているのがここからでも見て取れる。 「ずいぶん集まってるね」 「それだけあいつが森に好かれてるって事だな」 ひねくれていた自分も、彼と一緒に過ごすことで幾分か素直になったと実感できる。あの明るさも素直さも、ちょっと能天気に見えるけれども、なぜか誰とでも打ち解けてしまう不思議な力があった。 「さ、行くか」 「あっ、待ってよ」 さっきは躊躇したくせに、自分の方がさっさと下りていってしまったギエナだった。 「ディルエヴィラーダ。ギエナールトゥバンが来たようだぞ」 声をかけたのは、長く艶のよい黒髪をもった若い男だ。袖の長い服を着て、なにやら神秘的な雰囲気をまとっている。普段の元気のいい子供はどこへやら、本来の姿をさらした世界樹の樹妖……赤珠である。今日の成竜の儀式のために、正装である大人の姿をしているのだ。 「ギエナが?」 よく通る声で答えて振り向いたのは、赤珠よりも幾分若い青年だった。顔立ちはまだ少年といっても十分に通用するだろう。三つ編みに結ってある黄色のかった淡いエメラルドグリーンの髪と、翡翠色の瞳が印象的だ。彼の右腕は左腕にたいして不釣合いなほど大きく、指が三本しかない。樹皮に覆われたそれには、不思議な模様が浮き彫りのように巻きついていた。振り向きながらも片手間に、まとわりついてくる小さな子供や動物たちを相手にしている。 ディルは赤珠の指差す方を見、すこし遠くにギエナを見つけて手を振った。声は聞こえないが、ギエナも手を振り返してくるのが見える。 「よかった、ギエナが来てくれなかったらどうしようかと思ってましたよ」 笑いながら、つぶやくように赤珠に語りかける。 「何か言いたいことでもあるのか?」 「んー……特にこれといったものはないですけど。でも、やっぱり一番の友達ですから。おれだけがそう思ってたら、悲しいじゃないですか」 青年が冗談めかして言うと、赤珠もつられて思わず笑った。 ディルにとってギエナの存在がとても大きいということは、この百五十年のあいだに赤珠にも自然と知れていた。同時にディルの素直で明るいその性格が、ギエナにとって良いよりどころとなっていた事も。 実を言えばこの広い森の中では、森の子ら同士のつながりはあまり強いとはいえなかった。その中にあってこの二人は、親子であり兄弟のような不思議な関係ではあったが、他の子供たちにはない絆のようなものをもっている。赤珠はそんな彼らの関係を嬉しく思っていた。 「森の子らは皆、兄弟であるはずなのにな」 「?」 ぼそりと発せられた言葉に、ディルが不思議そうな顔をして見つめてくる。 「……いや、お前たちのような関係が珍しいというのが、すこし悲しく思えてな」 「ええっと……おれもギエナ以外とはそれほど良い関係ともいえないですけど」 「ひとりでも互いに支えあえる相手がいれば、ずいぶんと違うものだよ」 「よく分からない、です」 「まあ、そうだろうな。外に出れば、自然とわかってくるだろう」 「そうですか?」 「嫌でも……一人にならざるを得ないからな」 「……?」 なにか含みのある言い方だが、ディルにはその真意がうまく理解できなかった。 「……おめでとう、ディル」 「来てくれてありがとな」 礼をいうディルに、ギエナは何を当たり前のことを、というような顔をする。いままで他人の成竜の儀式などにはほとんど顔を出さなかった彼だが、やはりディルだけは特別のようだ。 「だってお前の儀式に出なかったら、一生恨まれそうだし」 「そうだな、毎晩夢にでた上に、そのままじわじわ絞め殺してやる」 「それじゃ恨みっていうか、むしろ呪いじゃねえか」 いつものようにそんな他愛のない冗談を言って、顔を見合わせて笑った。世界樹の根元でそうやって談笑するのも、今日が最後だと思うとなんとなく寂しくなる。 「しっかしなあ、あんなちびっ子が、こんなにでかくなるなんてな」 「ギエナも背高いしな。おれも見下ろすと思わなかった」 ギエナが目を細めて懐かしむように言うと、ディルも肩をすくめてつぶやく。 二人であの小さな冒険に出かけたころ、ディルはギエナの二の腕にとどくか届かないか程度の身長だったが、今は頭半個分ほど彼の方が上だった。体つきもギエナは割と細身なのだが、ディルはどちらかというと筋肉がついてしっかりしている。性格も見た目も一見すると対照的だが、それはそれでこの二人が並ぶとしっくりくるから面白い。 「……あのさ、ギエナ。竜って、『剣の民』って言われてるよな」 「?……ああ、そうだけど」 「でも森の住人は『理の民』……魔力の民だよな。樹竜って、いったいどっちなんだろ?」 「……さあな。それはちょっと俺にはわからない。けど、樹竜ってのが普通の竜よりも魔法を使うことには長けてるって聞くな」 「じゃ、森の資質はのこってるんだ」 「そりゃまあ、もともとは森で育ってるわけだし、属性だって樹だしな」 「よかった」 心から安堵の息を吐くディルに、なぜ突然そんなことを聞くのか、不思議に思ったギエナがたずねる。すると彼は、森の一員でいられなくなってしまうのが、なんとなく嫌なのだと答えた。 なぜディルが森に好かれるのか、ふと分かった気がした。森に好かれるということは、森を誰よりも好いているということなのだ。自分を育ててくれたこの森を、素直な気持ちで受け入れて愛するということ。ギエナ自身はまるで親に反抗する子供のような感情しかもてなかったから、なおうらやましいと感じた。 そういえば、カルブも森に好かれていた。森と一体になれることが嬉しいのだと言ったあれは、いまのディルと似たような気持ちで言ったのだろうか。 「ディルエヴィラーダ、名残惜しいだろうが、そろそろだ」 しばらく話し込んだところへ、赤珠が声をかけてきた。ディルはうなずき、ギエナに手を振ってその場を去る。 「大丈夫、ギエナ?」 遠くから見ていたらしく、聖域まで一緒に来た樹妖の少年が、黙りこんだまま動こうとしないギエナのそばにやってきた。 「ああ、大丈夫……大丈夫だよ」 樹妖の方を向いたその顔が、こころなしか赤くなっているようだった。涙は流していないが、わずかに眉をひそめて口元をつりあげている。 「ギエナ、ディルとすごい仲いいもんな?」 心配そうに言う樹妖だが、その言葉がきちんと耳に届いている様子はない。ぼんやりとして前方をみつめていたが、それからふと樹妖の彼が所在なさげにしている事に気づいたらしく、にこりと微笑んだ。 「……行こうか、あいつを見送りに」 二人の男が、世界樹の下で向かい合って立っていた。 ひとりは、森の子。いまひとりは、世界樹の意思。ときおり強い風の吹くその場所で、まるで決闘でもするかのような格好で立っている。周りには、森の住人たちが二人の様子を固唾を飲んで見守っていた。 静かな時間がしばらくそこを漂い、やがてその支配を赤珠の言葉が破った。 「大いなる森の意思よ、わたしの言葉に耳を傾けるがいい」 凛とした声に反応してか、大気が小刻みに震えだす。 ディルはゆっくりと瞼を下ろし、その空気に身をゆだねた。するとひんやりとして心地よい、何か水とも空気ともつかないものが、体の中に流れ込んでくるのがわかる。 「森に生まれし子らに、竜の証を認めるならば、彼の者に新たな名を」 答えて森がざわめいた。目を閉じて立ち尽くすディルの周りを、歌うようにして風がめぐる。その風は次第に速さを増し、小さな竜巻のようになって、やがて上へ抜ける格好で消えた。 後にのこされた男の右腕が、樹皮で覆われた巨大なものではなく、普通の腕に変わっている。彼は目をあけ、向かい側に立つ赤珠を戸惑うようにみつめた。赤珠が笑ってうなずくと、彼の前にゆっくりとひざまづく。 赤珠はいちど大きく呼吸をして、それからひざまづいた男の額に左手をあてると、穏やかにたずねた。 「竜よ、お前の名は?」 「…………ダル……ヴィド」 それはまるで、真夏に大雪が降っているような、奇妙な光景だった。 聖域には、世界樹が命をつないだあの日とおなじ「星生み」の光が降り注いでいる。しかし、かつてこれほど盛大な「星生み」があったろうか。いつもはちらつく程度の光が、竜の誕生を祝福してのことか、いまは半ば吹雪のように降っているのだった。 「ダルヴィド……か。森の者としてはこれ以上ないくらい、すばらしい名だ」 ダル・ヴィドとは、太古の森の言葉で「樫の木の智者」という意味をもつ。大昔からこの森の中では、世界樹を除けば樫の木が一番力の強い樹であるとされてきた。その名を与えられたということは、森の力を分け与えられたのと同じことだといえた。 「おまえは本当に、森に愛されているのだな」 立ち上がり、はにかむように笑う男。 赤珠にこたえて竜の名を名乗った瞬間から、彼は「ディルエヴィラーダ」の名を捨てて、「ダルヴィド」となったのだ。森に与えられた名を負いながら、これからは森の外で生きていかねばならない。 「さあ、森の竜よ。今こそその翼で、巣立つときが来たのだ。飛び方はおまえの心にききなさい。そうすればおまえの空が、応えてくれる」 ひとつうなずき、男は赤珠の前を離れる。森の住人たちが遠巻きに見守る中で、彼は一人の少年を目に留めて言葉を発した。 「……ギエナ、あのときの約束、覚えてるか?」 上空からの光がスポットライトのように当たるそこは、ギエナのいる場所からはすこしまぶしすぎて、彼の顔を見ることが叶わなかった。 「約束?」 「『命の水』をとりに行った時の」 「そんなに前のこと……忘れちまったよ」 「……そっか」 残念そうに言うが、きっとその表情は穏やかに笑っているのだろう。 「ギエナが忘れてても、おれは覚えてる。絶対、約束を果たしに帰ってくるからな。今はまだちゃんと飛べないと思うけど……いつか、うまく飛べるようになったら、かならず」 「早く行けよ。空が……待ってる」 つっけんどんに返される言葉。だが、それがギエナなりの優しさなのだと、彼にはわかっていた。きっと照れくさいのだ、面と向かって優しい言葉をかけるのが。 「じゃあ、おれ……行くよ」 「元気でな」 「ギエナも」 ゆっくりとその瞼を閉じ、ひとつ大きな呼吸をする。するとそれまで人の形をしていた男の姿が、音をたてて変貌し出した。やがてそれは皮膜の翼をもった、四足の巨大な爬虫類と化す。 銀の角、翡翠の瞳、黄色のかった淡いエメラルドの鬣。その体を包むのは、孔雀石のような鮮やかな緑の鱗だ。若く美しい竜が一匹、そこにいた。 竜は不思議そうにひとつ周りを見渡してから、翼を広げた。何度かその翼を動かすうちに、巨体が羽根のようにふわりと浮きあがり、上空へと舞い上がる。それから空の上でぐるぐると、しばらく名残惜しそうに旋回していたが、意を決したのかどこかへ行ってしまった。 竜の姿が消えると、ひとり、またひとりと森の住人たちも聖域から去っていった。残ったのは聖域のあるじと、一人の少年。 「……行ってしまったな」 「……」 少年は答えない。今さっきまでここにいた、竜の旅立ちを祝福するように唯々その濃い青を孕む空を、見上げ続けているだけだ。 「あやつと、何の約束をしておったのだ?」 「……」 青年が去る間際に、ギエナへ残した言葉の意味を、世界樹がたずねる。忘れたとは言っていたが、この少年の記憶力は彼が一番良く知っていた。 「言いたくないのなら、別に無理をせずともよいのだが」 あまりに長く沈黙しているギエナに、仕方がないなと軽くため息をついて背を向ける。すると少年は、聞き取りづらい声で言葉をもらした。 「……あいつ」 赤珠は数歩あるいたところで足を止め、振り返る。 「あいつ……俺が竜になれないんだって言ったら、自分が竜になったら俺を背中に乗せて空を飛ぶって言ったんですよ」 「…………ああ……」 ギエナが約束を忘れたと、わざと彼を突き放した理由が、赤珠にもわかった。 「竜になったら、森のこと全部忘れるんだってことも知らないで……っ」 抑えていた感情が隙間から流れ出した。それでもまだ顔を真っ赤にしながら、必死に涙をこらえる。 「……ギエナールトゥバン」 「こんな気持ちになるなら、あいつとなんか……っ」 「ギエナールトゥバンっ!」 いつも穏やかな赤珠が突然大きな声を出したものだから、ギエナはきょとんとして彼のほうを見た。だが怒鳴った赤珠の方は、いたって柔らかな表情のままだ。 「……そんなことを言うものではないよ、ギエナールトゥバン。おまえとあの子は、とても強く結ばれている。たとえ離れても、あやつがこの森のことを忘れてしまったとしてもな」 あきれるでもなく、怒るでもなく。世界樹の意思は、この少年を優しく包もうとしている。 「だが、おまえの気持ちも分かる。おまえは私の次に、森の理を知っているな。だから、いままでは他の子らとあまり付き合わなかったのだろう?」 自分が傷つきたくなくて、自分のことを忘れられるのがつらくて。だからギエナは、森の子らとは長い間、親しい関係を作らずにきたのだった。 「俺は……あまりに長く、生き過ぎたんですよ」 「そうだな。それに私も、おまえを竜にしてやることができなかった」 「赤珠さまは悪くないでしょう?俺が森に認められないだけですから」 「……いや、森がお前を認めていないわけではない。森の声は、お前を十分に認めている」 「…………えっ?」 世界樹はこんな時に嘘など言わない。森の意思を伝えたその言葉は真実だ。 「だがおまえに竜の名はふさわしくないと、私にもわけの分からないことを言うのだ」 「……なんだよ、それ……」 「まあ、いずれわかるだろう。今はまだ分からない、それだけだ」 ギエナはなんだか複雑な顔をして、赤珠を見つめ返している。 「おまえにはおまえの役目があるのだ。竜になることだけが、森の子らの役目ではない。竜になれずに死んでいくのが役目のものもいるし、おまえのような者もいる。それが世界の意思だ」 一度は離れた彼のそばに、赤珠はふたたび歩み寄った。長く白い袖でギエナの体を隠すようにして、その背側に腕を回し、彼の頭をなでてやる。 「……無理をするでない。泣きたければ泣けばいいし、笑いたくなったらまた笑えばいいのだ。私の前でだけは、大人ぶらなくても構わないのだよ……おまえたちは皆、私の子なのだから」 背中を軽く叩くと、ぽた、と透明な雫がおちて、苔に覆われた世界樹の根に吸い込まれた。 遠くから、どこかの竜の啼く声が響いてくる。 少年の腕が、震えていた。 空気を裂くのはこの背の翼。見下ろしてみて、この森の広さを改めて実感する。 大陸の横幅を覆うようにして横たわる暗緑色の樹々の海に、未練を断ち切るようにして精一杯の咆哮で別れを告げ、緑の竜は青い波の輝きを目指して悠然と空を滑っていった。 |
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