三 節『 記 憶 の 谷 』


 ほそくうねる道をいくつか通り抜けて、着いたところはどこからどう見ても行き止まりだった。
 ツタや大樹の根におおわれた岩壁が目の前をふさぎ、左右には幹同士を複雑にからみあわせた樹の群れ。通れそうなところといえば、いま通ってきた道を引き返すくらいしかなさそうだった。闇の中、ギエナは息をひそめて黙り込んでいるが、ディルは不安そうにあたりを見まわす。
「ホントにこんなとこに……?」
おもわずつぶやいたディルに、須応が笑う。
「疑うのも無理はない。我らでさえ、滅多に入らぬところだからな」
「わしらとて、この森の記憶にみだりに手を触れることは許されん」
須応の言葉を補うようにして、照魔も言う。それから二人は、目の前の壁に片手をついた。
 ギエナとディルもうながされて、首をひねりながらも同じように片手をつく。ふたりの手がきちんと岩についているのを見ると、須応と照魔はどちらともなく歌うようにその言葉をとなえた。
「「母なる森よ、子らの求めに、いざその記憶をここに示さん」」
ざわ、と空気がふるえた。その直後、目のまえの岩壁に全員の腕がずぶりと沈んだのだ。おもわず手を引っ込めようとした「森の子ら」だが、その手がまったく動かないことにさらに驚く。
「ほれ、そのまま進め進め」
先に全身を埋めてしまった須応のかわりに、照魔が背中をおしてくる。されるがままに、ギエナは姿を消した。ディルの方はというと、眉をひそめて腕を抜こうと頑張っている。
「ぼうず、そいつは結界でな。一度沈むと前にはすすめるが、後ろに戻れはせん」
腹ぁくくれ、と雷のように大笑いしながら、ディルの背中をすこし強めに押し出す。小さなディルの体は、実に簡単に中へと滑り込んだ。

 岩の中には、美しい泉を中心においた風景がひろがっていた。否、泉というよりは滝つぼに近い。落ちてくる水がしろく虹色の糸をつむぎ、その下でゆれる水面はしずかに波うっている。音はない。ただそこにある、それだけだった。確かに動いているのに、そこには時間の流れなど存在しないようだった。
 須応、照魔、ギエナは、何の疑問もないかのようにその滝のふちをあるいていく。ディルも三人についていったが、ふと滝の前でたちどまり、水の落ちてくる地点を仰いだ。
「……動いてるのに、動いてない」
そうとしかいえない不思議な空間に、なぜか一人取り残されたように感じる。音もさせずにながれおちている細い滝の反射する光は、幻のごとく淡い。ぼんやりと眺めているうちに自分が自分でないような、風景の中に溶け込んでいくような気にさえなる。
 「おい、ディルっ!」
ギエナの声にはっと気がついて、そちらへ顔を向ける。おいていかれる、と走り出そうとしたが、足が動かない。足元を見る。丈の長い服にかくれて見えないが、地面に足が直接くっついているみたいな感じだ。おかしいと思いながら裾をめくってみて、さらに驚いた。
「何やってんだ、おまえ」
「ギ……ギエナ……おれ、足が……」
戻ってきたギエナが、めくられた服の足元に目をうつす。
「足?……え……ディル、おま……これっ……!?」
 目をみはる彼の視線の先には、樹と化したディルの足があった。木の皮でつくられた靴をつきやぶって、足が地面に根を張っている。人間に近い皮膚であるはずの足の、膝のすこし上までが半ば樹皮と融合したような、見たことのない状態になっていた。
 いや、ギエナもディルも、それに近いものはいつも見ている。自分たちの腕の付け根だ。「森の子ら」は完全な動物ではないので、体の一部が樹のままになっている。竜になればそれは自然と消えるが、生身の部分が樹にもどることなどありえない。だから、驚いた。
「どうした、おまえたち?」
 須応と照魔も心配して戻ってきた。ギエナが口をあけたまま無言で示した先を、照魔が覗きこむ。ふたたびあがってきた額のまんなかに眉がよっていた。
「こりゃ大変だ。ぼうずの足が樹にもどってやがる」
「記憶にとりつかれたか?」
「多分ぼうずの中に、この森出身の樹妖がいるんだなあ」
またしてもよく分からない言葉がでてきた。獣の領域は、わからないことだらけだ。
 本気で困った顔をして、照魔も須応も樹になってしまったディルの両足を眺める。
「もどっている、って?」
自分のことなのに、番人らのつぶやいていることがいまいち飲み込めていない少年が、不安そうに彼らをみあげる。
 「おまえ、ここで一瞬気を抜いたろう」
須応がため息をつきながら言う。ディルがさっき立ち止まったことを思い出してうなずくと、彼女は続けて言った。
「ここは記憶の谷、森の記憶の全てが集まる場所なのだ。そこかしこでこれまでの時間が渦を巻いている。魂の森で生まれたものは、気を抜けば過去の記憶にとりこまれて、肉体が逆行現象をおこしてしまう。すると大人が子供になったり、下手をすれば前世までもどる」
 癖なのか、それともそういう言葉しかしらないのか、須応の説明はどことなく難しい。ギエナならともかく、ディルの頭にそれらの情報が正しく入るわけもない。須応と照魔の間を視線がさまよっていた。
「まあ、つまりはぼうず、お前の中にある魂の一つに、この森で生まれて死んだ樹妖がいる。そいつが、昔を思い出して樹にもどっちまったってこったな。ここはそういうことが起こる、特別な場所なんだ」
照魔が補ってくれた説明で、ようやく事態がのみこめた。
「それって……おれの体が樹になりかけてるのか?『森の子ら』から?」
 ふいにしゃがんだギエナが、ディルの樹化した足をつかんだ。節くれだった皮の下にはまだ筋肉が無事に存在するらしく、震えているのがわかる。
「ギエナ、くすぐったい」
動きはしないのだが、身をよじって逃げようとする足の動きがあった。手を離し、再び触れると複雑な顔をしたディルに目で抗議される。
「感覚はあるんですね」
「完全に樹になったわけではないからな。仕方ない……照魔」
「む?」
「おまえ、ディルエヴィラーダを引っこ抜いて担げ。もしかしたらこれの治し方も、語り部が」
「……それしかないか」
どこか親父くさい仕草でゆっくりしゃがみこむと、ディルの足をつかんで思い切り上へ引き上げた。ぶちぶちぶちっ、という鈍い音がして、地面に埋まっていた根がちぎれる。
「痛くないか、ぼうず?」
盛大にしかめっ面をした少年の顔は言葉で語らずともそれが「痛い」と示している。しかし血が出ているという訳でも、神経がとおっている様子もない。根っこが抜けるときに皮が引っ張られて痛んだのだろう。
傷ついているわけではないことを確認すると、照魔がディルを背負って、ふたたび一行は歩き出した。


 ようやく目的の場所へと辿り着いた彼らの目の前には、大きな岩があった。よく見れば、それは巨大な爬虫類の顔のような形にもみえる。灰色と茶色と、ところどころに緑をまぜて、それはそこにいた。
『『よく来たな、われらが領域の番人よ』』
いくつもの声が同時に発せられているような、奇妙な音だった。しかしそれは言葉となって、目の前にたつ客人たちにむけられる。
『『そしておまえたちも……世界樹の眷属』』
歓迎されたのはいいものの、圧倒されて言葉が出ない。とてつもなく長い時のなか、そこに存在し続けているという重みが、そこにあった。
「これが……『語り部の竜』?」
『『そうだ、森の子らよ』』
 それは須応や照魔が答えるより早く、ディルの質問に応じた。しかし、たしかに形は似ているものの、どう頑張っても竜とはいえない。生き物ではなく、岩のかたまりだからだ。そして今度は、口を開く前に語りべは答えた。
『『われは語りべの竜、この森の『記憶』を管理するものだ。われのような者は、知られていないだけで世界中に存在している』』
 語り部などということばをはじめて聞いたディルに、彼(彼女?)は丁寧に説明してくれた。簡単に言えば、こんな感じだ。
 語り部、それは神話にすら出てこない、世界の歴史を記録するものの総称なのだという。動物だけではない、本来は植物も、無機物も、それぞれがそれぞれの記憶を蓄積している。
 この世界では、すべての魂が種からできる。種は海でうまれ、泡の乙女と呼ばれる者たちが一年に一度、それぞれの土地に現れては、その一年にうまれる生き物の魂の種をまいていく。
 魂の種がまかれるのは、土地の語り部の中。語り部は魂の種に、世界のルールを教える役割を持っているからだ。それが母親の胎内なり、植物の種なり、卵なり、そういったものに宿り、この世に生まれでるとそれは魂を持つことになる。
 そしてやがて寿命がつき、器が魂を失ったとき……つまりは死んだときに、その記憶を語りべの中へ脱ぎ捨てて、海へと帰る。そうして再び種としてうまれて、何かに生まれ変わるのだ。循環する魂は、一部の例外を除けば壊れたり消えることがない。
 しかし、記憶を脱ぎ捨てた魂は、単体では海へと帰ることができないのだという。空っぽの魂は動き方さえ忘れてしまうから。そこで語りべは、魂の森に空っぽになった魂をおくり、森の語り部はそれらを受け取って泡の乙女に手渡すのだそうだ。竜と呼ばれるのは、この森にいくらかいる語りべたちを区別するためだとか。
 『『ここは森中の記憶が集まる場所ではあるが、管理は複数でやっておる。われが獣たちの記憶しかもたないのはそういうわけだ。それに世界中の魂を受け入れるとなるとあまりにも多すぎて、分担しなければ壊れてしまうしな』』
しばらくはそういった、おもに語りべの話が続いた。番人でも滅多にはいらないというのは、本当のようだ。よほど退屈しているらしく、 彼の語りは三時間ほども続いたろうか。照魔などはディルを背負って近くの岩に腰掛けたまま、居眠りをしていた。

「んで、本題に入りたいんですけど……いいですか?」
さえぎったのは、ディルだった。語り部のおしゃべりはきょとんとしたように不意に止まる。
「その、あなたから見れば、おれたちの属するっていう『世界樹』があぶない……寿命がつきかけているんです。おれたちは、その……命を延ばすっていうものを探してて、ここにきたんです」
『『おぉ、もうそんな時期……いや……早く、ないか?』』
「早い?」
『『以前はもっと周期が長かったぞ。三千年とか、四千年とか。たしか前の寿命で探しに来た連中は、八百年くらい前だったな……ここのところ短くなっている』』
それでも常識から考えたらかなりの長さなのだが、なにかひっかかる言い方だ。
『『まぁ、それはまずおいておくか。あやつのことだ、どうせまたギリギリの時間しか与えていないんだろう』』
優しすぎるからな、ともつぶやいて、語り部の竜はしばらく沈黙する。
 一同のまわりを、風がしずかに通り抜けたようだった。かすかに冷たい空気が、夜だということを思い出させてくれる。この領域とやらは昼間のような光が降り注いでいたので、すっかり忘れていた。他の場所とは、時間が隔離されているのだということがわかる。
 『『……ふむ、今回の「水」は、なかなか居所がつかみにくい……ふらふらとさまよっておるようだ……この森のものではないかもしれない』』
ようやく語られたのは、予想外の言葉だった。女の白い裾が足の動きにつれてふわりと揺れる。
「この森のものではない、とはどういうことだ?語り部の竜よ」
『『命の水というものが、この森から生み出されたものではないという可能性も、全くないわけではないのだ。この森の中に長くいさえすれば、そのちからが宿ることもある。過去にもそのようなことがあった』』
ただ、となにかを言いかけ、話すのをためらうように黙りこむ。しかしそれもつかの間、すぐに語り部は言葉を発した。
『『今回のは、この森のものであってこの森のものではなく、生きているが死んでいる』』
しごく奇妙なことを言うものだ。そんなものが存在するのだろうか。
『『それに、動物であって動物でないのだ。そうだな、その点では森の子ら、ちょうどお前たちのような』』
思わずディルとギエナは顔を見合わせて首をひねった。それを語ったはずの者さえ、戸惑っている様子でふたたび喋りを止めてしまう。
 「そんなもの、どうやって見つければ……」
『『何者かは判断できんが、場所は動いていないようだから、それだけは教えられる』』
彼によれば、それはこの場所から南の方角にあるという。やたらと広く開けた場所で、ここと似たような雰囲気の場所であると教えてくれた。
 子供たちは語り部に礼を言う。場所が分かれば、あとは森の子らの感覚で見つけ出せばいいことだ。「森の子ら」ならば、命の水を判別できると赤珠は言っていた。

 「語り部の竜よ、もう一つ聞きたいことがあるのだが」
『『なにを聞きたい?番人・須応よ』』
「実はこの子供……世界樹の使者が、領域にうずまく記憶に取り込まれかけたのでな。足が樹に戻ってしまって、歩くこともままならんのだ。治す方法をご存じないか?」
ふむ、と頷いて語り部は口を開く。
『『それを治すには、この領域のなかには生えていない植物の葉をあてがえばいい』』
「……この領域に生えていない森の植物などあったか?」
『『ひとつだけある。森の子らが持っている』』
 疑うようなまなざしを語り部にむける須応。彼女は番人でありながら、どうも語り部のことを全面信用はしていないらしい。
 しかしギエナは語り部の言葉で思い出し、懐から緑色の鮮やかな葉を取り出す。
「これのことですか?」
『『あやつの葉だな、そう、それだ』』
 世界樹はこの世に一つしかない。となれば、彼の領域の中には生えていないのは当然だ。早速ギエナは、照魔の背中からディルをおろし、樹皮におおわれるようになっている彼の片足に世界樹の葉を当てた。するとどうだろう。ごつごつしたそれは腫れが引くようにして消えていき、かわりに元の肌色が姿をあらわした。こまかく枝分かれして生えていた根も、きれいさっぱりなくなっている。
 もう片方の足にもあてがって樹化を解くと、ディルは嬉しそうに両足をぶらぶらさせた。
「おれ、歩けるのがこんなに幸せだって知らなかったよ」
膝が曲がるのがよほど嬉しいらしく、そのあたりをうろうろと歩き回ってみたり、飛び跳ねたりする。
「さて、用は済んだな。語り部の竜よ、森の番人として礼をいう」
彼女はそういって、頭を深く下げた。それから、相変わらず眠っている照魔の背中を平手で叩く。
「こら、照魔。終わったぞ」
「んー?」
彼は昼間の番人であるため、少しでも眠っておかないと明日に支障をきたす。だから語り部も須応も、彼を起こさなかったのだろう。
 ふああ、と大きく伸びをして、髭づらの男は自分の顔をぱしんと軽く叩いた。例によって雷のような声で笑い、頭を掻く。
「いやいや、寝るつもりはなかったが、申し訳ない。語り部の竜、お力添え感謝します」
須応よりもだいぶ丁寧に礼を言う。
『『なに、気にするな。われはお前たちに守ってもらうだけで嬉しいのだよ。またしばらく会えぬか……元気でな、わが魂の教え子たちよ』』
 表情はわからないがわずかに寂しそうな声で別れを告げる。森の子らも口々に礼と、別れの言葉を言って、一行はその場所を後にした。





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