ぐるぐると歪みながらめぐっていた景色が、ようやく落ち着き始める。木漏れ日が金色の輝きを増し、葉ずれの音が強くなってきていた。うっすらとにじんでいる汗を片手でぬぐい、細い木に背をあずけた姿勢のまま、しばしぼんやりと半開きの目で景色を眺める。 あいつはどこまで進んだかな。 そんな考えが脳裏をよぎった。心配そうに一度振り返った少年の顔が浮かんでくる。弱った生き物がこの森の中で孤独でいることが、どんなに危険なことかを彼らは互いに熟知していた。 だが彼はあえて、自分を置いていくようにディルを促した。なにかを見捨てることも、生きていくうえでは重要になることだと知っていたからだ。相方を見捨てられずに共倒れた生き物たちを、いやになるほど見てきていた。 どれだけの長い間、この森で過ごしてきたのだろう。それはもはやギエナ自身にもわからないことであった。生きてきた時間など、どうでもよくなっている自分がいるのは知っている。かといって森の子らである以上、簡単に死ぬこともできない。森の子らは竜と同じだけの丈夫さや治癒力をもち、さらに寿命というものが存在しないからだ。 いくつもの竜の巣立ちを見てきた。今では赤珠の片腕とまで言われるほどの知識さえ持っている。だが、この背には「翼」がない。いつまでたっても空は憧れのまま……そんなことを考えていると、どんどん気分が落ち込んでくる。一人でいると何か関係のないことを考え込んでしまい、それもあまりよくない方へとむかってしまうのは、ギエナの悪い癖だった。 まぶたをあけると日の光が眩しく突き刺さってくる。勢いをつけて立ち上がり、頭を一振りしてもやもやした気分を振り払う。まだすこし気分は優れないものの、ぼんやりしているうちに頭痛はほとんど治っていた。 よりかかっていた木の幹を軽くたたき、休ませてくれたことに礼を言う。すると木はどういたしまして、とでもいうように枝をゆすった。 ギエナはディルのたどった道をなぞってふたたび歩き始めた。 急ぎ足でディルを追い始めてしばらくすると、何かが近づいてくる気配がした。ちょうどディルが進んでいったのであろう道を逆向きにこちらへと向かってくる。 足の速い獣のような軽やかな進み具合ではあるが、彼の感覚は違うものだと告げている。獣以外でこの森を軽やかに動くのは妖精か森の子らしかいないはずだったが、今近づいてくるそれがディルではないのは確かだった。 その妙なものの気配にわずかな不安を感じながら、ギエナは進む足を止めはしなかった。たとえそれが、自分に敵意をもつものだとしても逃げ切る自信はあったし、まだ幼いディルが心配だという気持ちもあったので先を急ぎたかったのだ。 しばらくして姿を現したのは、白い衣の女だった。森の緑に溶け込むような濃い色の長髪をゆらし、ギエナを見つけるとちょっと驚いたような顔をして立ち止まる。 「あら、ギエナールトゥバンじゃない。どうしたの、森の見回り?」 ウニョーイエーラは明るい声で話しかけてきたが、ギエナの方は盛大に顔をしかめて、露骨な態度をしめした。 「……おしゃべり娘が何の用だ」 「ちょっと人から頼まれ事があるのよ。あなた、この先で倒れている子をみなかった?」 その「倒れている子」が自分であることになんとなく気づいたが、あまりウニョーイェーラにはかかわりたくない気持ちもあってか、誰もいなかったと答える。 「そう……おかしいわね」 つぶやきながらしばしギエナの姿を見つめていたウニョーイェーラは、やがて合点がいったとでもいうような顔でぽんと両手を合わせた。 「わたしと同じくらいの見た目でオス寄りで、頭に細長い布……もしかしてディルエヴィラーダの相棒っていうのはあなたのこと?」 「……そうだけど、それがどうしたんだ」 気づかれた。先とは別の意味で頭痛がしてきて、思わずこめかみに手を当てる。」 「ディルエヴィラーダに頼まれたのよ、相棒が調子を崩したから見ててやってくれないかって。一人じゃ危ないからって……やさしい子ね」 「この通り、立ち上がって歩けるくらいには回復してる」 「でもよくみたら顔が真っ青じゃない。それに足元がすこしふらついてるわ」 「心配してくれてありがとうな。だけど知ってるだろう、俺は死なない。死のうと思ったって死ねないんだからな」 拒絶の言葉に、ウニョーイェーラはため息をつく。 「死なないって言ったって、それはあくまで寿命の話でしょう。森の子らは寿命で死ぬことはないけれど、命を奪われることがあるのはよく知っているはずじゃないの?」 だからあなたはいつまでも片翼なのよ、と続けた彼女に返す言葉は見つからない。まったくその通りだ。他人の考えをすんなり受け入れているようですべて拒絶して、意地を張っている。どれだけ長く生きていたって、ひがみっぽいのは変わらなかった。むしろ時と共にその傾向は強くなっているかもしれない。 ギエナがそんな自分自身を嫌悪し続けていることを、彼女は見透かしていた。ウニョーイェーラの青い目は人の気持ちを読み取ることに長けている。本当の気持ちを知られることが苦手なギエナは、そんな彼女が苦手だった。 「……分かったわ、こういうのはどう?あなたが完全に回復するまで、一緒にディルエヴィラーダのところに向かいましょう。それならもし途中で倒れても大丈夫だし、きちんと治ったらわたしは別のところへ行くわ」 彼女の性格を考えると、目的を果たすまでは地獄の底までついてきそうな気がして、ギエナはウニョーイェーラの提案にしぶしぶ従った。 「?」 どこへむかって進んでいいのか少し分からなくなりながら歩いていた……というか正直迷子になっていたディルは、ふいに立ち止まって木の葉に囲まれた空を仰ぎ見た。さっきまでさざめき笑うような音をたてていた木々の枝が、怯えるように細かくふるえ始めたのをわずかに感じとったのだ。 「何か……怖がってる?」 木の感情は、枝葉の動きや幹を通る水の流れといった音に関わるものに現れることが多い。木に深くかかわる生活をしている者には、ほかの者にはわからないほど小さなそれを感じ取ることができるのだという。まして元が木である森の子らならば、なおさらだ。 「なあなあ、いったい何があったんだ?」 手近にあった一本の木に聞いてみる。すると微かにだが、歌うような調子の答えが返ってきた。 「むこうに だれか もりにいないはずの なにかが ふらふらと ねむって おきて」 まだ若い木らしく、ひとの言葉には慣れていないのがわかる。 それでもディルはなんとなく意味を察して、こんどは木の言葉で再びたずねた。 『森にいないはずの誰かがいるって……そいつ、どんなやつ?』 木の歌をきいて頭に浮かんだのは、語り部の竜の語った言葉。「森の中のものであってそうではない」といっていたから、もしかしたら何か関わりのあるものかもしれない。 『森の子らに近くて遠い、生きているが死んでいるもの。動けない僕にははっきりとは判らないけれど、変な感じがして怖い』 さっきまで「それ」は眠っていたが、さきほど起きだしたらしく動き始めたので怯えていたのだ。生き物かどうかもわからない、得体の知れないものが近くにいるのは誰だって怖い。 ただ、ディルが木の言葉を知っていたのですこし安心したのか、葉ずれの細かい音がわずかに緩んだようだった。 『おれたちに近くて遠い?』 『そんな気がする。僕たちにもすこし近い。でも森の子らのほうがもっと近い』 でも森には他にあんなものはいない、と木はつづけた。 木は木同士の特殊なネットワークをもって、ひとつの森の中の出来事や体験を共有しているという。直接感じたことではないものでも、その感覚には嘘がない。赤珠からその話を聞かされていたディルにとって、この若い木のいうことは確かな手がかりになった。自分たち森の子らに近いということは、森の中のものであってそうでないという、矛盾したキーワードに一致しそうだった。 『あのさ、ちょっとそれ見に行きたいから、どこにいるか教えてくれるか?』 ざわ、と一度幹をゆすった木が沈黙する。見に行きたいなどという彼に戸惑ったのだろうか。しばらく言いよどんでいたが、やがて不安そうに道を教えてくれた。 『……風の音をきいて。森をぬける風の道をたどっていけばすぐ着くと思う』 『風の道かぁ』 目を瞑って体を森に溶け込ませるような感じをイメージしながら、風を聞く。透明で小さな流れが、頬をなでながら過ぎ去っていくのがわかった。自分から見て、左斜め前のあたりからの風が多いように思う。たぶんそちらのほうに「それ」がいるんだろう。 世界樹にもらった鮮やかな緑の葉の鼓動は、すこしずつ小さくなっていた。残っているのはあと一日半だ。ディルは若い木に礼を言い、幹を軽く叩いて別れの挨拶をすると、先ほど感じた風の通り道のほうへと走り出す。あとには葉ずれがざわざわと、静かに騒ぎ立てるような音で残っていた。 |
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