六 節『 樹 竜 』


 めまいがひどい。体全体が腫れぼったいような、そんな感じがする。すこし眠っては起き、うろうろとその辺を動きまわってみる。だるいような、そうでないような、へんな感じだった。
 自分から望んでここへきたのかどうか、実を言うと分からなかった。
 気がついたらそこにいたのだ。体中が透けているような気がするけれど、特に体が軽くなったわけでもなさそうだった。浮き上がることも沈むこともできず、何かにとらわれるようにしてそこに留まっている。
 静かで暗いこの空間では、自分のしらないもの……生き物とも精霊ともちがう、なにかよく分からないものがたくさんいた。しかし空気のように漂うそのどれもが自分をさけてとおるようだった。寂しくはないが、あまりいい気分ではない。この場所に来てから、なにかモヤモヤとした気分が消えなかった。
 だが、ここ数日は何かが来るという予感にわくわくしていた。確信があるわけではない。ただなんとなくそういう気がするだけ、という程度ではあったが、長い退屈はそれを大きな刺激に変えた。「それ」はその何かが来ることで、こんな何の変化もない時間が続くこの状態が変わることを期待していた。そして待ち望んでいたものは、昨日ぐんと近づいてきた。今もどんどん近づいている。
 枯葉を踏みしめて走る、荒めの息遣い。濃い緑をかきわけ、風に逆らうようにしてやってくる。
 早く来い!
 もう待ちきれなかった。自ら外へ飛び出す。暗い場所を思いきりぬけて、光の中へ。
 いちどきに明るくなったその世界で目にしたのは、三つ編みの少年が背の高い草をわけて現れた瞬間だった。

 風の道を辿っていくと、迷っている間はおさまっていた例の頭痛がまたおそってきた。進むにつれてそれは再びひどくなっていく。
 「命の水」が近いのだろうか。ギエナといたときはそう思えなかったが、あの木から情報を得たことで道のりが確かなものだとわかると、なんとなくそんな気がしてくるから不思議だ。自然と足が速まっていく。
 だんだんまわりの草の丈が高くなってきた。あまり身長のないディルにとって、自分の背よりも大きい草むらは大きな障害になった。時折うすく細い葉がするどい刃のように肌を裂き、そのたびに血がにじむ。だが、あまり気にはならなかった。すぐ近くに「命の水」があるような気がする……今はそちらに気をとられていた。

 そのうち、ふと視界をおおう草がなくなった。
 空気が変わる。森の中からそこだけ時間に取り残されたような、妙な雰囲気だった。なんとなく、あの語り部の竜のいた空間に似ているような気がする。円形に背の高い草や木のなくなった小さな広場のような空間の真ん中に、小高い丘のようなものがあった。
「誰、おまえ?」
 突然自分と同じくらいの子供の声がして、ディルはあたりを見回した。だが、誰もいる気配はない。首をかしげながら視線を元に戻すと……そこにいた。丘のようなもののその上に、黒い髪をした少年がにこにこしながら座っていたのだ。
「やあ、はじめまして。僕は自分のことを知らないから名乗れないけど、とりあえずここにいる」
 変なことをいうやつだ。名前をもたないモノがいることは知っているけれど、自分を知らないなどというものは初めてだ。
 樹妖ではない。樹妖が必ずもっているはずの土の気配がないからだ。かわりにそれがまとうのは風であった。ディルの知っている風の気配を持つものというのは森の一部の動物や鳥くらいで、そんな人のような形をしたものは見たことがない。だからといって精霊のような気はしないし、体のどこにも木の雰囲気が感じられないので、もちろん森の子らではない。
「おれは『森の子ら』のひとり。自分を知らないってなんだよ?」
「命の水」を求めて来てみれば、そこにいたのは得体の知れない少年。だがディル自身の心のどこかに、そいつが水の場所を知っていると言うなにかがいた。
「『森の子ら』?なんか懐かしいような言葉だな……聞いたことなんてないはずなのに。なんだよっていわれても、知らないものは知らないんだ。答えようがないじゃないか」
 やけに楽しそうだ。まるでいままで声が出せなかったとでも言うように。ディルが声を発する間もなく、カケスが縄張りを守るときに鳴くような勢いで、何かをまくしたてている。
 あまりにも馴染みのないものが突然現れて、ディルは戸惑っていた。無意識に相手の様子を観察してしまう。
 その姿は森の子らにとてもよく似ていた。耳の先は何かのひれのようになっているし、瞳は深い緑色、肌の色はすこし褐色のかった感じがする。ただ、指から伸びているなにか――森の子らにはそれがないので、爪であるとはディルにはわからない――が、まるで鷲の爪のように鋭かった。
 「おおっ」
少年は髪を風に遊ばせながら、とつぜん喋るのをやめた。じっとディルの後ろを見つめ、なにやらにやついている。
「森の子ら、おまえの仲間がきたみたいだな」
「仲間だって?」
 言われて耳をすましてみれば、たしかにがさがさと何かが近づいてくる音がする。しばらくしてひょっこりと顔を出したのは、あのギエナだった。
「……ギエナ」
「お、ディル。意外に早く追いついたな……無事みたいでよかった」
「それはこっちの科白だよ……なぁ、ギエナ、あいつ何者か知ってる?」
「ん?」
 得体の知れない少年をディルが指差し、その先に視線を移したギエナが目を見開く。
 少年はそんなギエナを見て、笑ったまま丘のようなものの上から下りてきた。ギエナの目もそのまま少年にくっついて上から下へと移動する。
「カルブ……?」
「僕のこと知ってるのか?」
「お前……いや……なんでだ?」
 会話が成り立っていない。少年は興味深そうにギエナの周りをぐるぐるとまわり、ギエナはギエナでなんだか魚のように口をぱくぱくさせている。おかしな光景だった。ディルは二人についていけず、おもわずギエナの服のすそを引っ張りながら言った。
「ギエナ、ギエナ。こいつ誰?」
「僕も知りたいな、僕が誰なのか」
 ディルに話しかけられてようやく正気に戻ったギエナは、こめかみに手をあてて自分の知っている限りの少年の情報を吐き出した。
「俺の記憶の中のこいつと同じならば、こいつは竜だ。900年か1000年か前に、森を出て行った……樹竜・ノートゥンク」
「さっきの『カルブ』ってのは?」
「森の子らだったときの名前だよ。カルバールケミヤっていう名前だったんだ。俺はそっちのほうが呼びなれてる。森の子らは、竜になると新しい名をもらう。それからはずっとその名で暮らしていくことになるはずだ」
 森に長くいたものに「命の水」が宿ることもある、というひとつのキーワードがかちりと音を立てて、はまった気がした。心の奥のほうがなぜか震えだす。
「樹竜って、樹なのか、動物なのか?」
「動物だろう、竜なんだから。けど森に関わってるからか、樹妖みたいな強い魔力ももつし、寿命も普通の竜よりすこし長いらしい。その点では樹妖に近いかもしれないな」
 ふたつ、みっつ。語り部の語ったそれがひとつずつかみ合っていくのがわかる。森のものであって森のものでなく、動物であって動物でない。
 もう疑いようがない。最後のひとつも、きっとどこかでかみ合うのだ。
「ギエナ、おれ、こいつの正体分かったかも」
「正体?」
「『命の水』だよ。赤珠さまの命をつなぐ」
 今日は驚かされることが多い。ギエナは軽く目をむいて、ディルとカルブとを交互に見つめる。
「……『命の水』だって?カルブが?」
 思い返してみれば、確かに語り部の語った言葉に符合する部分が多いことに気づかされた。
「あー、思い出した!そうだ、僕は……そうか、ノートゥンクでカルバールケミヤで」
 一度大声をあげ、続いてぶつぶつと何事かつぶやき始めるカルブ。あたりをうろうろと歩き回り、それからふと歩くのをやめて、二人の森の子らを振り返った。
「僕はもう、死んでたんだよ」






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