七 節『 命の水 』


 「死んでた?」
「そうそう。これ、僕の死体なんだよ」
 二人同時に聞き返してきたそれになぜか嬉しそうに答え、自分のおりてきた黒い山を指さす。いわれてよく見てみれば、黒いと思っていたその表面はところどころ翡翠のような色を垣間見せていた。油でさび付いた金属のように、黒ずんだ部分も角度によってはわずかに虹色を帯びている。
「生きてたらこんなに若くなかったし。死ぬ直前ジジイだったもん。なんかさ、死ぬのが近いって思ったら急に『戻らなきゃ』って。そんで、気がついたらここにいた」
 それまでの全てを思い出したのだろうか。カルブは黒ずんだかつての肉体を眺め、それから自分の姿をあらためて見回し、複雑な表情になる。静かで暗いところ、というのはたぶん死者の魂が一時的に集まる場所だったのだろう。この森にはそんな場所が、落とし穴のような状態でいくつも存在する。
「『命の水』か。まさか僕自身がそれになるなんて、探してるときは思いもよらないよね」
「あんたも?」
「うん。そのときは結局、森の番人の羽一枚で楽勝だった。な、ギエナールトゥバン」
「……なんでその名前を知ってる?」
 話をふられたギエナは、ひどく厳しい表情をつくってカルブをにらんだ。自分は彼にフルネームを名乗っていない。ディルが呼んだ「ギエナ」という略称しか、彼が耳にしているわけはなかった。カルブは眉をひそめて首を横に振り、ギエナの言っていることがよく分からないと示すが、ギエナの表情は硬いままだ。
「どうしたんだよ、ギエナ。顔怖い」
「ディル、お前ちょっと話が聞こえないところまで行ってろ。こいつと話したいことがある」
 突然反応の変わったギエナに、ディルは戸惑いながらもここに来た目的を思い出させる。
「『命の水』は?」
「ああ……そうだ、そっちが先か。ディル、どのあたりに水を感じる?」
「体のほうのはずだよ。中に輝いてるところがあった」
 ディルが指差すよりも早く、カルブが答えた。自分の死体のそばに歩いて――もっとも、その足は地面からすこし浮いていたが――いくと、頭のように見える高く盛り上がった場所に手をあてた。ディルも後からついていき、同じように手を触れてうなずく。
「うん、なんかこの辺を触ると、すごくざわざわする」
「じゃあ、そこに赤珠さまの葉を当ててみろ」
 ギエナは近づかず、ディルにそう指示する。
 言うとおりにすると、緑色の葉が青っぽい光にぼんやりと包まれ始めた。竜の死体のほうも、葉の触れたところから波打つようにゆっくりと光が広がっていく。静かだった水面に水滴が落ちたような、そんな感じの光景だった。
 やがて亡骸は青みを帯びた白の光に満たされる。輝きと生気にみちたそれは遺体などではなく、ただ夢をみているだけの白く美しい竜のようだった。「命の水」は世界樹の命を補うものだが、それは逆に言えばミアプラキドスという世界自体の命をつなぐものなのだと改めて思わされる。
 一同が見とれているうちに、今度は世界樹の葉へと光の波紋が逆に集まり、そして消えた。あとは葉だけが輝いている。ディルはもとの黒ずんだ物体となったそれから、おそるおそる葉を取り去った。軽かったはずの葉が、すこし重くなっているように感じる。持ち上げた瞬間に光が一粒、水滴のごとく零れ落ちたが、それはまるで光でできた液体だった。水、と呼ばれるのはこれが本当の理由なのだろう。
 それほど間をおかず、竜の死体が崩れ始めた。風に削られる灰の山のように、粉となって消えていく。ディルはあわてて後ずさり、カルブは悲しそうな笑顔をうかべてその様子を眺める。ギエナはといえば、相変わらず強ばった表情で崩れていくそれをにらみつけていた。
 「ディル、それをもって聖域に帰れ。できるだけはやく届けろよ」
「ギエナは?」
「いっただろ、俺はこいつに話がある」
「でも……一緒にいってこいって……」
言いよどむディルを目だけで早く行けと示す。
 しぶしぶながらわかったと返すディル。ギエナがなんだか焦っているようにも見えて、すこし心配だった。森の子らの中で一番長く生きているとはいえ、心がひとところに定まらずに常にゆれ動いているような……少なくともディルは、ギエナと会った時からそう感じていた。
「ギエナもなるべく早くきてよ?」
「……ああ」
低い声でかえされる返事。ゆれているくせに言い出したらきかない人なんだとあきらめて、ディルはその場を後にした。

 ディルの足音が十分に離れたのを確認して、ギエナはカルブに向き直る。
「お前、なんで森の中の記憶があるんだ?」
「何でっていわれても」
「あるわけがないんだ……樹竜は森を出たら、それまでの記憶をすべて失うはず」
 森の子らが竜になって森の外に出ると、なぜか森の中で育った記憶が町や村で育ってきたもののようにすり替わっていく。他の竜たちと同じような環境で生まれ育ったものだと思い込む、といえば近いかもしれない。森の記憶が断片としてのこることはあるが、誰とどうやって過ごしていたのかまでは絶対に覚えていないはずだった。
「森の記憶がちょっと残ってたって、俺と一緒に『命の水』を探したことなんか……まして俺の名前なんて、覚えてるわけがない」
 責めるように言いたてるギエナのほうが、逆に混乱しているようだ。握りしめているこぶしがわずかに震えている。
「……僕の中には二つの記憶があるんだ。竜だったときには森のほうは忘れていたみたいだけど、タプナードの街で育った記憶と、森の中で遊んでた記憶と、両方。どっちが本当なのかははっきりしないけど、森のほうでちらっと浮かんだのがおまえと一緒に歩き回った事で」
 自分の死のことを思い出したとき、魂の森のことも一緒に思い出したのだった。別に不思議なこととも感じずに言ったのだが、ギエナはそれが普通ではないと知っていたから反応した。それに彼にはあまり尋ねられたくないことがある。
 「それよりさ。おまえ……あれから千年近くたつのになんでここにいるんだ?」
ごく自然にそう問われて、ギエナの表情が凍りつく。まさにそれが訊かれたくない事だった。
 実を言えばディルにその話を聞かれるのがこわくて追い払ったのだ。ギエナの過去を知るものが、いまここに彼がいることを不思議に思わないわけがなかった。かならずその言葉が飛び出してくると思ったからだ。
「それこそ『なんでといわれても』だ。俺は……竜になれないんだよ」
 今度はカルブの方がが声を上げる番だった。千年以上も、ギエナは竜になれないでいるというのか。ギエナ自身は肯定したくない風ではあったが、すぐに認めた。
「何でなのかは分からない。竜の『しるし』はちゃんとあるし、何度も儀式をしたんだ。だけどなぜか右腕から樹がきえなくて、空に昇れない……ずっとこのままだ」
 森の子らが竜になる年齢は個人差があるのでまちまちだ。通常はうまれてから二百年前後で、竜になれることを示す「しるし」が皮膚と植物が混ざっている部分に現れる。それが現れたのちに、赤珠が行う特別の儀式を受ければ竜になることができるはずだった。
 儀式を終えた森の子らの体からは、植物と融合していた部分が完全に消えて、普通サイズの「人」と大きな体の「竜」の二つの姿をもつ「竜族」になる。それから森をでて、植物の属性を持った普通の竜として暮らすのだ。
 事実、カルブは樹竜ノートゥンクとしてその生涯を終えた。死の間際に森に帰ってきてしまったのを除けば、なんら不思議なこともなくすごしていたのだ。
 ギエナにも生まれてから百九十年ほどで「しるし」が現れた。右腕に刻まれるようにしてまきついている、妙な文様がそれだ。だが赤珠が何度儀式をしようと、彼の腕から樹皮が消えることはなかったのだった。
「だからさっきの子を追い払ったのか。僕がたずねると思って……悪かった」
だが、ギエナはゆっくりと首を横に振った。
「べつにカルブは悪くない、俺が聞かれたくなかっただけだ。こんなに経つのに、いまだに怖がっている自分がいる」
「自己嫌悪はほどほどにしておいたほうがいい、きりがなくなるから」
 自分を責める癖は昔からぬけないなと軽く茶化すようにつぶやき、カルブは昔の兄貴づらをしてギエナの腕を叩く。どこか不器用な慰めに、彼は幼いころと同じようにうなずいた。

 ディルは急いで赤珠の元にもどった。行きは情報をさがしたり迷ったりで大分時間がかかってしまったけれど、実際のところ聖域からさほど遠いというわけではなかったのだ。まっすぐ帰るだけならば、半日も走ればすぐにつく。
「カルバールケミヤが……?」
 話を聞いた赤珠はかるく目をむいた。はるか昔にこの森を出て行ったはずの彼が、どうしてこの森にいるのだ、とギエナと同じ疑問をもったのだ。
 だが、ディルには初めから知らないカルブのことよりも、赤珠に訊きたいことがあった。今回の小さな冒険で、ところどころに不審な行動のあったギエナのことだ。彼が自分のそばで知らない行動をとるのが、なんとなく気持ちが悪かった。
「赤珠さま、ギエナって一体何者なんですか?赤珠さまみたいに色んなこと知ってるし、ウニョーイェーラっていう女の人からは『片翼の竜』なんて呼ばれてたし……それにカルバールケミヤってそいつがギエナの名前言った時も、すごい怖い顔してた」
 一気に言いながら次第に青ざめた顔になっていく。それからひとつ間をおいて、不安そうに言葉を吐き出した。
「ギエナが空を飛べないっていうのは、もしかして――」
「ディルエヴィラーダ、それはわたしの口からはいえないことだ」
 赤珠がその声をさえぎる。常に柔らかな笑みをたたえている顔が、すこし険しいものになっていた。だがすぐにいつもの表情にもどり、ディルの両肩を二度、やさしく叩く。
「ギエナールトゥバンは心に怪我をしているんだ。それは小さいけれど、他の人に触られるととても痛くて苦しいんだよ……だから、わたしからは言えない。あの子が自分から話すのでなければ、知っていても言ってはいけないんだ」
 好奇心が旺盛なのは悪いことではないが、時にそれは刃物よりも深く人を傷つけることがある。小さなディルには、まだそれがよく分かっていないのだ。知られたくないことを無知の刃でえぐられた者が、時には命さえ失うのだということを、赤珠は彼を育てるものとして教えなければならなかった。
 首をかしげているディルに、赤珠はゆっくりと、彼にも理解できるように説明する。
「ひとには知ってほしいことと、知ってほしくないことがあるのだよ。たとえばディルエヴィラーダ、おまえがこの間、蛇に追いかけられて怪我をしたこと。あれはあまり他人には知られたくないことだろう?」
 少年はそのときのことを思い出して首を縦にふる。
 赤珠が言ったのは、地面の草にまぎれていた蛇を気づかずに踏んづけてしまい、すぐに逃げたが追いつかれて足を噛まれた時のことだ。そのときはなんでもなかったが、あとから腫れて痛んできたので赤珠に泣きついたのだった。結局その蛇に赤珠と一緒に謝りに行き、ゆるしてはもらったのだが正直あまりいい思い出ではない。
「もしそれがディルエヴィラーダの知らないところで、わたしが誰かに言いふらしたりしたら、すごく嫌な気持ちになるだろう?」
ふたたび素直にうなずくディル。
「それと同じだ。ギエナールトゥバンは、おまえの今知りたがっていることを知られたくないのだよ。知りたがることは、悪いことではない。けれど無理に知ろうとしてはいけないこともあるんだ。わかるね?」
 丁寧にさとされて、少年は赤珠の言っていることをようやくのみこむ。赤珠はそんなディルの頭をくしゃくしゃとなでてやった。すると彼はこそばゆいような笑顔になる。
「では、すこしギエナールトゥバンを待つとしようか。もうすこし、お前たち二人の力が必要なのでな」
 「命の水」の満ちた葉を小さな手からうけとると、こんどはその葉を手放したとたんにディルが大きなあくびをする。
「眠いか?」
「んー……葉っぱがなくなったら急に……」
「やっぱりそうか。その辺で眠っていていいぞ、ギエナールトゥバンが来たら起こそう」
「そうですか?じゃあ……おやすみなさい」
「おやすみ」
 目をこすりながら赤珠の根の中でも特に太い一本の上へと歩いていき、手ごろなくぼみの中で横になる。手足を丸めてちぢこまると、少年はすぐに寝息をたて始めた。
 赤珠は彼をみて満足げに微笑むと、自分も本体の樹の中に溶け込んだ。後はしずかな空気だけが聖域を支配しはじめる。






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