《 第三節 Traum im Traum  》


 月が怖くて眠れないと、真夜中の焚き火番をしているシュネイの隣に座ったのは、まだ幼い妹だった。シュネイと同じ真っ白な髪と浅黒い肌をもち、澄んだ空のような青い目をした妹。

「お兄……」
「アーレ?……どうしたんだ、眠れないのか?」
「うん……あのね、なんだかね、怖いの」

 眠る前に見た大きな満月が、頭から離れなくなってしまったらしい。落ちてきそうだと不安そうに訴えた妹の手が、かすかに震えながらシュネイの腰布の端をつかむ。シュネイはうつむいてしまったアーレの頭を、くしゃくしゃと撫でた。その手が妙に小さい気がして、自分のものなのに、少し変な感じがした。

 見上げれば青白い色をした月が、いまは遠く、天頂近くから二人を見下ろしていた。確かに何となく不安定で、落ちてきそうな気がする。

「歌を、歌ってやろうか?」

 そういうと、妹はぱっと顔をあげて、目を輝かせる。

「おうた、歌ってくれるの?」
「ああ。そうしたら、眠れるだろ?」
「うん! お兄のうた、大好き!」

 まだ声変わりの完全に済んでいない声で、シュネイは妹の眠りのために知っている歌を歌いだす。人間の戦を伝える歌を歌うと、語りが進み焚き火の炎がはぜるたびに、物語の場面が浮かんでは消える。金色の炎が万華鏡のように次々とイメージを映し出すそれは、どこか現実離れしていて、とても美しいもののようにみえた。

 エルフェの歌うたい・センゲリンであった母親の血を継ぎ、シュネイは言葉を覚えたくらいの頃から、無意識に旋律に力をこめることが出来た。おかげで周りの歌い手たちに期待され、たくさんの歌や、力の使い方を叩きこまれてきた。やがて六十歳(人間で言えば十二歳くらい)になる頃には、既にセンゲルとしての力はそれなりに備えていた。

「アーレ? ……もう、寝たのか」

 歌い終え、いつの間にか眠ってしまった小さなアーレを、テントの中に運ぼうとして抱きあげる。と同時に、焚き火の炎が大きくなって彼の視界を埋め尽くす。
 不思議と熱くも、怖くもなかった。大きくなった炎はあたりを包み込み……気がつけばシュネイは、何処かの草原にいた。

 晴れ渡る空のもと、気がつけば妹の姿は腕の中から消えている。その代わり、少し離れたところに別の人物が立っていた。見覚えのあるエルフェの少年だ。人間で言えば十六、七歳といったところか。

 それは唯一無二の親友の、懐かしい姿。

「……フェデ、ル……?」
「よう、シュネイ」

 赤味の強い金色の、長い髪を風に波打たせて、少年はにっこりと微笑んだ。シュネイを見る、暁の空のようなすみれ色の目が、優しげに細められる。

「フェデルっ!」

 駆け寄ってその肩を叩こうとしたシュネイを片手で制し、フェデルは首を横にふった。

「触るな。戻れなくなるぞ」
「……?」
「俺とお前の違い、分かるだろう」

 言われてみて、ようやく自分の目線が彼よりも上であることに気付いた。共に過ごした頃の自分は、フェデルよりも大分背が小さくて、よくからかわれたくらいなのだ。

「そうだよ……お前は、死んだん……だよな」
「はは、そう落ち込むなよ。お前のせいじゃないんだから」

 ちょっと困ったように眉尻をさげる、いつもの笑い方で、フェデルは立ち尽くすシュネイを慰める。

「そういえばお前、人間を拾ったって?」

 しばらくお互いに黙っていると、フェデルがふと思い出したように訊ねてきた。

「……ああ」
「気をつけろよ」
「『気をつけろ』? 何に?」

 すみれ色が見た事もない冷たさを帯びる。覚えのない眼差しの鋭さに、シュネイは思わず身震いをした。

「分からないか。覚えているだろう? あの痛みを、悲しみを、憎しみを」
「フェデル?!」

 フェデルの体が、足元からどんどん黒ずみ、影のようになっていく。しかし本人は、まったく気にする様子がない。
 フェデルばかりではない。いつのまにか景色はぽっかりとした暗闇に飲み込まれ、そしてシュネイ自身、体の一部が闇に変わっていた。消えていく自分に気がついて、シュネイは慌ててその影から逃れようともがく。
 慌てるシュネイに、そんな事をしても無駄だとでもいわんばかりに、いつも穏やかに隣で笑っていたはずの親友の、その目が暗く嗤った。

『……忘れるな』

 フェデルが、遂に片目だけになった姿でシュネイを見た。もはや見えなくなった口から、最後の一言をシュネイの頭の中に響かせ、その姿は完全に背景に溶けてしまう。

 ほぼ同時に、シュネイの視界も闇に落ちた。




「――――ッ!」

 くるまっていた毛布を跳ね除けて、飛び起きる。
 嫌な汗が背中を伝うのが分かった。無意識にこめかみに手を当てる。しばらく肩で呼吸をして、今いるのが現実であると全身で確かめた。まだ暗い朝の空気で、少しずつ頭が冷えてくる。

「ったく、なんて夢だよ……」

 荒い息がようやく整うと、髪があちこち跳ねるのも構わずに、乱暴に頭を掻いた。

「一昨日、ミステル様にあんなこと言われたからかなぁ……」

 ぼやきながらのっそりと起き上がると、薄ぼんやりと輝くランプに手を伸ばし、少し弄った。テントの中が明るくなる。

 ストーブの窯を開けて、スコップで灰を掻きだし、まだ燃えそうな薪や火の消えた炭を選んで中に戻す。新しい薪と炭を足し、小枝と干草の束に獣脂を浸したものを一緒に入れ、それから火の残っている炭を戻してやった。
 スコップを脇に立てかけつつ、ストーブにむけてちいさく鼻歌のようなものを呟くと、ぱっ、と干草に火がついた。小枝に燃え移るのを確認してから、蓋を閉める。

 入り口の分厚い布を押し上げて、埃っぽい空気を入れ替えた。おとといとは打って変わって、空は晴れ上がっていた。箒を持ち出して、 さきほど掻き出した灰の山を無言で外へ追いやる。隅においた愛用の弓の弦を張って、調子を軽く確かめてから、ようやく今日が休みだという事を思い出した。
 久々にもらった休みだが、いつもどおりに起きて、つい武器の点検までしてしまったことに苦笑する。もしブランドやガイゲが休みをもらっていたら、まずこんな時間には起きていないだろう。

 見れば、ステルンはまだ安らかな寝息を立てている。つい二日前まで、真っ青な顔をして雪に埋もれ、死に掛けていたのが嘘のようだ。エルフェのすむ森に侵入しながら、こうして無事生きながらえている事自体がかなりの強運の持ち主だと、シュネイは思う。
 エルフェが住んでいなくとも、そもそものモンデンヴァルト自体が大変危険な森である事は、近くに住む人間ならば十分に知っているはずだった。それをあえて入ってきたからには、何か理由があるのだろう。それとも、この華奢な見かけに反して、あの悪名高い妖精狩りだとでもいうのだろうか。

 様々な憶測が頭の中をめぐるが、ため息をついてその循環を終わらせた。ひとりで考えていても仕方がない。起きている所を長に見せれば、すべて済むことなのだ。

 水がめに直接小鍋を突っ込んで水を汲むと、ストーブにかけた。切った肉と野草をその鍋に無造作にいれてふたをする。茶色の皮をしたサツマイモのようなものを洗い、別の鍋に汲んだ水にいれて小鍋の隣に置く。あとは適当な時間ほうっておけば、朝食の出来上がりだ。
 朝食ができるのを待っている間に、夕べの彫像の膠が乾いたかどうかを見る。指先で動かすと、別段ぐらつくわけでもなく、しっかりとくっついているようだった。さっそく道具箱から石のナイフをもってきて、床に座り込んだまま削り始める。

 さり、さりというかすかな音が、まだ太陽の低い朝に寄り添った。






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